タイに行ってきました。旅レポを書こうと思っていたら、なんだか気持ちのいい日常が始まってしまって。
順不同。順番は関係ないよ、とのメッセージのようです。「時間軸」?、でしょうか。前エッセイ『90909のメッセージは ?』の中に『「9」は、天・地・冥界を結ぶ軸』というお話がありました。私の中ではこれが勝手に時間軸とつながっているみたいです。
さて、以下は2019/09/28に執筆。アップは翌日。多少手を加えて。
おとといタイから戻って洗濯物の山。家事は苦手な方だけど洗濯だけは別。洗濯をして洗濯物がベランダで風に揺られている景色はなんとも気持ちがいいのです。
ベランダの花たち。バラが元気に咲いてくれていました。今朝はハイビスカスが二つ。他の鉢のハイビスカスの蕾も元気です。「気持ちよかったよ、あなたは ?」の声が聴こえてきそう。
きのうは家の近くのショッピングセンターでハワイアン・チャントが聴けるというので旅行前から楽しみにしていました。早速行ってきました。チャントってマントラみたいなものかと思っていたら、神に捧げる祈りの儀式のよう。ハワイの男性がふんどしと布を身にまとい、ほら貝をふきながら神と対話するかのように歌を歌います。祝詞 ?
目線が少し上に向いています。神を意識すると上に向くのでしょうか。15分間のチャントとなっていましたが実際には5分程度。それでも気分は十分ハワイアン。3日前の夜にはタイでタイ舞踊を観ていました。
踊りって基本的に神への捧げものというか、神への祈り、ですよね。タイは仏教国だから仏さま ? それとも国王 ? その辺、まったくわかりませんけど、私の中で「プリミティブ」な何かが動き始めたのかもしれません。いつもなら旅先での〇〇舞踊の類はハートに入ってこないのです。
その後フラのパフォーマンスを少し観て、今度はセルフ・メンテのためにスポーツ・クラブに向かいます。入口で外国人男性テニス・グループに呼び止められ、「写真お願いできますか」と。私はガラケー派、スマホはほんの少ししか触ったことがありません。
「どこ押すの ?」、思わず出た一言。「あ、これです」と教えてもらいながら何枚か写真を撮りました。
「ごめんなさい、もしも撮れていなかったらもう一度撮り直しますから」
すると彼らは、「良く撮れています。OK ! OK ! 大丈夫ですよ。どうもありがとうございます」と。
優しい。
私は多分、苦手意識から「うまく撮れないかも。失敗したらどうしよう」と潜在意識が作用していたのです。それに対して「OK ! OK ! 大丈夫ですよ」と。
たったこれだけのことなのに「流れが変わった」と感激。そう、ふと考えてみると私はそれなりに陽気でフレンドリー、そもそも少しくらいの失敗なんて笑ってごまかしちゃえ、というタイプだったのに、いつからか、「どうしよう、上手にできなかったら。失敗したらどうしよう」と無意識のうちに不安モードに入っていたことに気づきました。
「私は失敗すべきではない。私は成功すべき」という「すべき論」が私を苦しめていたみたいです。「すべき論」が優先すると失敗を恐れるあまり対人恐怖症にも向かいます。「私には失敗は許されない。失敗しないように人と距離を置いた方が無難」というように。
こんな潜在意識に気づけたのもタイに行ったから。
タイは私のハートを開いてくれたようです。微笑みの国、タイランド。タイの人の笑顔は本当にあたたかい。私の仮の姿である「すべき論人」をお祓いしてくれたのかもしれません。
スポーツ・クラブでピラティス・レッスンを受け、身体の歪みが良い塩梅におさまりました。その後、再度ショッピング・センターに行ってLiveを観ます。最初立っていたのですが、なぜか一番前の席が空き、「ここに座りなさい」の導きかと素直に従いました。アーティストは日本人でしたが、海の香りのするあたたかいLive。コラボもあって、名前は忘れました、どうやらハワイのフラの第一人者の弟子らしい女性のパフォーマンスを間近で楽しむことができて、やはり「ここに座りなさい」は本当だったんだ、とまたも感激。
母性、女性性のメッセージ・エネルギーに包まれます。大地のエネルギーです。グラウンディング。
その後、愛犬・華実との長距離のお散歩に。気候が良いので三番瀬まで足を延ばし、東京湾にはなぜかヨットが浮かんでいて、その右手には海の公園。公園の奥には小規模のホテル群。さらに海から川に向かい桜並木の遊歩道を歩きます。
途中、馴染みの猫さんがいて、多分ノラちゃん。家猫ルールが一般的なこの辺では珍しい地域猫のような存在の猫さんです。まるで神社のようにその猫さんにごはんが備えてあります。きっとごはんをあげている人たちは、猫さんを神聖な存在だと思って想いを寄せているんでしょうね。
「こんにちは」
「ミャ~」
いつものご挨拶。華実はこの猫さんには反応しません。お友達のように近づくかと思っても何もいないかのように通り過ぎます。この猫さんがわんこ嫌いなのかも。華実には基本「嫌い」がないので、この関係はかなり珍しいのです。
動物君同士は瞬時に挨拶を交わしていますから、「あなたが嫌いなのではなく、わんこが苦手なの」と猫さんが華実に伝えているのかもしれませんね。華実はジェントルマンですから、「へぇ~、そうなんだ」とただ猫さんの横を通り過ぎる。無関心を装っているけど、ちゃんと関心をもって猫さんの気持ちを尊重して。
いつもの散歩道。いつもの空間。夕景が美しく、「あぁ、ここは十分リゾートだ」とあらためてわが街に想いを寄せます。そう。この辺は「ベイ・エリア」の端っこ。街の植栽、マンションの植栽にはかなりの比率で椰子の木が植えられています。戸建てエリアは限られていて、ほとんどが大規模のマンション群。そんな中でわがマンションはおそらく植栽比率ナンバー1ではないかと思うくらい緑豊かです。
この街に住みたくて住みたくて毎週マンションのオープン・ルームに足を運び、やっと出逢えたのが今住んでいるこの家。高層マンションだけれど、わが家は地べたに近いところ。キッチンからお庭の植栽が借景となって目に飛び込んでくるようになっています。
完全なるリゾート・タウンではないけれど、ほどほど都会でほどほど田舎で、私にとってはかなりお気に入りの街。私は憧れはあっても純粋なる田舎暮らしはできないタイプだし、だからと言って都心生活ができるタイプでもなくて、そこそこ便利、それなりに不便、そんなこの街が私にとってはちょうど良い。それなのにいつからか、「もっと、もっと」みたいな欲が生まれてきて、住み始めた頃の感動が薄れてきていたみたい。
そのことにふと気づきました。私はリゾートが大好きで、できればアジアのリゾートに移住を、と考えています。その第一弾は実はもう実現していた。海と川が近くにあって緑も豊かなこの街はどう考えても湾岸リゾートエリア。上を見たらキリがないですよね。上を見出したら下も見出す。「ここはあそこよりリゾートチックだわ」みたいに。
上も下も関係ない。今在るこの景色と匂いの中でのベストを探ればいいのだから。いまここでの「あるがまま」に身を委ねればいいのだから。
ハートがフラットになりました。
私たちはやっとの想いで何かを手に入れても、そこで満足することができなくて、しばらくすると、「もっともっと」と望む生き物なのだとわかりました。もちろん、「もっともっと」のすべてが悪いということではありません。けれど、「もっともっと」と望むことでこころに欠乏感を生み出してしまうことがあるのも事実です。
何かが足りないなと感じたら、本当にそれは足りないのか、実は自分の中にちゃんと存在しているんじゃないか、そんなことを感じてみるこころの余裕が大切なのかもしれませんね。その見直しのために「もっともっと」と感じる感情を与えられているのかもしれません。
ということは、「もっともっと」は良いものでも悪いものでもなくて、ただ存在する何かだということではないでしょうか。「もっともっと」を制限しすぎる必要もないし、「もっともっと」を至上命令と思う必要もない、ということ。「もっともっと」にもそれなりの価値と意味があるということです。
こんな風に旅という非日常から戻ってきて日常に目を向けたら日常の魅力が蘇りました。色あせた日常に極彩色が戻ったのです。
旅も良し。日常も良し。
そんな人生の旅路を楽しみながら。
今度の旅はどこにしようかな~。それまでここでのリゾート生活を満喫させてもらおぅっと。
この街は東日本大震災で「地べた」がメチャクチャになりました、一瞬で街の様相が一変しました。時が経ち、変化は変化として、さらなる街の美しさが芽生え始めました。さらなる緑も増えました。地べたも街も生きています。埋立地として人工的に創られたこの空間でさえ。彼らの息吹きと同調できたらミッケモン。
私たちはおそらく今の自分にふさわしい街に住んでいます。たとえそう感じられないことがあったとしても。それはそうは感じられない、という体験を楽しんでいるだけ。
すべてがちょうど良い。すべてがうまい塩梅に調律されているんだな、とあらためて「存在」の力を想い出しました。
当エッセイ、不思議と「タイレポ」と「湾岸レポ」の融合バージョンになっています。私がタイとこの家に同時に存在しているかのように。
※ 追記
ハワイアン・チャント、二日目も観てきましたよ~。きょうは伝統フラ・カヒコも踊ってくれました。土の匂いを感じました。