私たちは自然の一部。
自然と共にこの地球で生きている動物です。ともすれば自然と人間、というようにお互いを切り離して考えがちですが、自然の中で自然に守られ、時に自然を支え、そんな相互関係にあるという現実をしっかりと感じさせてもらえた瞬間でした。
先日、あるテレビ番組を観ていたら、マレーシア・ペナン島でのドリアンの収穫の場面が流れていました。
その収穫とは、熟して木から落ちたドリアンの実を拾う、という作業だったのです。
「収穫の時期はドリアンが決めるんだよ」
何気なく発せられたその言葉を聴いて驚いてしまいました。あたりまえといえばあたりまえなのかもしれませんが、私は収穫、というと人間の意志で果実がもがれる感覚をイメージしていたのです。
9月の花模様のエッセイでお話したように、なぜか今年の夏はベランダのお花に液体肥料を与えませんでした。そのお蔭で、早くも夏枯れ状態のお花たちもたくさんできてしまいました。
その一方で、次なるステップでお話しているように、枯れてショボショボになったダリアが見事に復活してくれ、私にとって大切なメッセージである「進化、自尊、威厳」というキーワードに気づかせてくれたりもして。
もしも、お花たちに肥料を与えていたら、彼らの生命リズムは異なるものになっていたのかもしれません。だとすると、肥料を上げること = 彼らへの愛、とは言い切れないんだな、とわが家のガーデニングにおいては、のお話ですが、そんなことをふと感じました。
自然は、私たち人間の支配物ではないということですね。もちろん、何も手をかけなければいい、という意味ではなく、最小限のお世話で、彼ら自身の生命力、自然治癒力を引き出していくこと、そんな関係があってもいいのかもしれません。
私にとっては動物君も同じ。私の感じるナチュラル・ケアとは ?でお伝えしましたが、私はできるだけ、自然体、等身大のお世話で、結果オーライになればそれでいい、という気持ちでいます。ベランダのお花たちがそのことを再確認する機会を与えてくれたのでしょうか。
ペナン島のドリアン、彼らは彼らの意思で食べごろを人間に知らせてくれる、というお互いにとっての素敵な関係。自然との対立ではなく、共生、共存、協調の中で、私たち自身もより自然体で生きる、という生活が手に入るんだよ、というメッセージを感じました。
数年前、主人とペナン島に行ったことがあります。ペナンは他民族が共に暮らしている島、文化のそこかしこに「融合」のエッセンスが香ります。彼らは侵食し合うのではなく、互いに一歩退きながら、相互関係を育んでいるのかもしれませんね。私たちはドリアンは食べたことがありません。そういえばはじめてドリアンに遭遇したのは、「大昔」行ったマレーシア・クアラルン・プールのマーケットでした。
強烈なにおい。
あの、マーケットの先に視えた夕陽は今でも私の大のお気に入り。家のそばで大きな夕陽が視えた日は、いつも「マレーシアみたい」と想い出しています。さすがにドリアンのにおいは蘇りません。
リゾート・フリーク、エスニック・フリークな私。そっか、あの時すでにマレーシアを体験していたんだ。
「太陽」 ?
このエッセイのメッセージでしょうか。
※ 追記 当エッセイの前記事は2019年9月6日『次なるステップ』
前記事での予感は当たりました。一週間続いた膨満感がなくなり、また昨日はぐっすり眠れ、朝、気分爽快で目がさめました。すべて大きな流れの中の一滴。
流れは大きく変わりました。