エッセイ執筆が間に合わないので、備忘録チックに。かなり個人的。(実際にはものすごい長文です)
〇 次元上昇が目的ではない、意識改革が主目的
〇 意識改革とは、すべての現実を受け容れていくこと
〇 アクエリアス革命とは個人の意識を変えて世界を変えていくこと、そのメンバーとして何をするか ?
〇 自分の意識を変えることで、自分と自分の周りを変えていく。まず自分。人が先、ではない
〇 「まず、世のため人のため」、意識の卒業
〇 うお座時代のキーワード「犠牲」
〇 「自己犠牲な私」の卒業
〇 外の権威に自分の権威を預けることが「自己犠牲」
〇 個の時代、個性の時代
〇 自分を愛する、慈しむ、育む
〇 自己受容、自己実現
〇 自ずから然る = 自然 (じねん)と Nature (自然・しぜん)は異なるもの。その一方でNature(自然・しぜん)には自然(じねん)の概念、システムが生きている
〇 自分の意識を変えることで、「神、カミ、シン」の概念が変わり、結果的により豊かで健やかな人生を育んでいく、ペット君やその他のNature(自然・しぜん)とともに。「神」という言葉にこだわる必要はなく、その時々にしっくりくる言葉で
〇 ペット君やその他のNature(自然・しぜん)に自分の過去のフィルターを使わない、新しい自分のフィルターを使う
〇 新しい自分とは、自尊心に基づいた自分。自己犠牲がベースの自分ではない。この意識変革を個々に進める、自分自身の中で
〇 自分自身はおそらく自分自神。神とは今まで知る「神」ではない、自然(じねん)の概念、システムに基づくもの ?
〇 自分の中に息づく「神、カミ、シン」、あるいは別の何かとの協働、協調によって自分自神を強くしていく
〇 他人軸から自分軸
〇 まず自分
〇 この考え方、言葉、概念がハートに響く人に自分の人生を応援してもらう
〇 自分の光が大きく強くクリアになれば、それは自然に「愛の放射」につながる。「愛を放射しなければ」の意識はいらない
〇 自分の光を放つためには、蓄電が必要、愛の蓄電
〇 愛とは人に向けた愛、人から与えてもらう愛の前に「自分自身・神(もしかしたら心あるいは芯)」への愛が先。それが蓄電
〇 他者への愛、は自分への愛がきちんと育まれてから
〇 意識改革のためには、時には今までの自分を捨てる覚悟が必要、それが「死」「破壊」
〇 「死」「破壊」なくして新たな命は生まれない
〇 再度、次元上昇が目的ではない、次元上昇は意識改革によって自然に生まれるもの。それが「自ずから然る = 自然 (じねん)」
〇 私たちは「自ずから然る = 自然 (じねん)」システムの一部であり、そのものでもあるのだから
※ 追記
本文もないのに、追記は変ですが。
ここではじめて「アクエリアン」という概念が出てきます。これは占星術による捉え方で、地球自体のエネルギーがみずがめ座に入る、あるいは入った、という概念です。
変な書き方になりますが「占星術」が単なる星占いではなく、宇宙の摂理のようなものとの認識が膨れ上がってきました。根本的に、「当たる」「当たらない」のようなレベルで考えるものではないという。ただ、私自身まったくの門外漢なので、そういう捉え方があるらしい、というところでの認識です。
「みずがめ座意識」の地球にあわせて、人間がどのように意識を変えていくか。
そこで出てきたのが「自ずから然る = 自然 (じねん)」システム、老荘思想の一つです。その自然 (じねん)」システムと「みずがめ座」の融合、それが私の場合は、「まず、自分」というところに落ち着きます。
自分とは、もしかして「自然 (じねん)」システムの一部として分けられた存在、という意味なのではないか、と。
だとすると、「まず、自分」を整えていくことで、全体としての「自然 (じねん)」システムがスムーズに機能し始め、同時に自分自身もそのシステムの一部として、違和感なく機能し始めるのではないか、と捉えました。
ただし、私の場合、一般的に言われている「ニューエイジ」あるいは「ニューエイジャー」の概念は、あまりハートに響きません。
「アクエリアン」=「ニューエイジ」と言われればそれまでなのですが、例えばニューエイジの教科書的存在、シャーリー・マクレーンの本などは、数行読んだだけで断念。それ以上読み進める気持ちは起きませんでした。その他にも、一般的に「ニューエイジの旗手、リーダー」的な存在の人やモノのエネルギーにハートが響かないことが多いのです。
厳密に何をどうやって区分する、カテゴライズするのかはわからないのですが、私の中では、「ニューエイジャー」概念はど真ん中ではなさそうです。もちろん個人的感覚なので、それらを拒絶する、排除する、という意味ではなく、今の私には必要ないのかも、という識別をした、ということです。
ですから、「アセンション」もまた、一般的な捉え方とは違っているらしく、「次元上昇」は自然に起こるものなんじゃないの ? あるいはすでに起きているものなんじゃないの ? と感じているようです、私のハートでは。
波動が高い、低い、の選別自体が旧意識の名残りのような気がするのと、アセンションできる人とできない人に二分されるという意識も、どうもみずかめ座意識っぽくないのでは、と感じるからなのかもしれません。
こんなことをタラタラと書いているのは、「今の私の意識はこういう段階」との意思表示をしているに過ぎません。
私の思うみずかめ座意識というのは、すべての個が尊重されて、協調し合ったうえでの「自ずから然る = 自然 (じねん)」システムなのではないかと思えるから。
すべてが「あるがまま」で尊重されるのなら、たとえ波動が低くても、たとえアセンションできなくても、あるいはアセンションを否定していても、それらも「あるがまま」であることが「自ずから然る = 自然 (じねん)」システムの一部なのでは、と。
「自ずから然る = 自然 (じねん)」システムがやたら気に入ってしまったみたいですね、私のハートは。
それが、Natureであるところの自然(しぜん)と何かしら関係があるらしいと感じたからなのかもしれません。
私は、ナチュラル・ケアを提唱させてもらっていたこともあるのですが、どうも私の思うナチュラル・ケアと、世間一般のナチュラル・ケアとはひらきがあるようだ、と感じていました。
それがもしかしたら、「自ずから然る = 自然 (じねん)」システムとNatureであるところの自然(しぜん)との違いなのか、それを包括するために「holistic = 全体主義 = 命丸ごと」の概念にたどり着いたのか、そんなことも視えてきました。その「holistic = 全体主義 = 命丸ごと」の概念さえ、私の思うそれと、一般的概念はひらきがあるようなのです。
とすると、それらを定義していても始まらない。まず自分が「自ずから然る = 自然 (じねん)」システムの一部として、同時に「holistic = 全体主義 = 命丸ごと」の一部として機能することが大切なのでは、と。
そのために何をするのか、そのためにまず自分を愛することだ、と。自分自身・神(もしかしたら心あるいは芯)を育むことだ、と。自分の尊重。
その結論が当記事の主旨です。
言葉の解釈云々にとらわれないで、私のハートは何を感じているのか、そんなことをキャッチしてくださる方がいらっしゃると信じて。
ここにたどり着くのに、さまざまな人物の生き方、考え方がヒントになりました。
一番近いところでの大ヒントは、深層心理学者であり思想家でもあるユングの生き方です。ただし、ユングはカルト・リーダーではないので、私自身、「理解不能」な点もたくさんあり、また「ユング信奉」でないことは、ある意味、ユングがティーチャーとしてのスタンスを明確にさししめしたからだと言えるかもしれません。
誤解の多いところのようですが、ユング自身はカルトを目指しませんでした、ユングは自己実現のモデルとして、決してユング自身を真似ないように、との考え方をもっていた人物です。
ティーチャーと自己同一化してしまえば、それは「個」ではなくなるからではないでしょうか。
真の自己実現は、人まねではできない、という、厳しい理論がユングの生き方の柱です。少なくとも私はそう捉えています。「個」を確立するためには「孤独感」「孤立感」を感じなければならない時もある、と。「個」の確立とは「エゴ」の確立でもあります。「エゴ」のない「自然 (じねん)」システムはあり得ない、という逆説がここに成立しますね。「エゴ」が確立してはじめて「自然 (じねん)」システムと響き合うことができる、ということではないでしょうか。
「エゴ」をなくすのが旧思想の傾向だったのでは ?
だとしたら、うお座時代のキーワードの「犠牲」の意味もよくわかります。
ちなみに『ユング学校、卒業』でお話している通り、私はユング理論への執着・依存段階は卒業しています。むしろ、卒業してやっとユングの真意がわかった気がします。
さて、ユング以外にここ最近、私にヒントを与えてくれたのは
〇 臨死体験を通じて重篤なガンを克服した女性、アニータ・ムアジャーニ
彼女の著書は二冊読んでいて特に、二冊目が気にいっていました。三冊目はないのかしら、とふと調べてみたら動画で情報を発信していることがわかり、その動画を数本観た直後に、恐ろしいほどの不快感がわいてきて。そう、ヒーリングが起きたのです。彼女の理論はシンプルでとてもわかりやすく端的です、ある一点をのぞいては。その一点は、私にとっては大きなポイントなので、少し差し引いてヒントにさせてもらいました。
〇 心理学研究家 鏡リュウジ
今までまったくのノーマーク。「みずかめ座」について調べていたらヒットしたサイトに書かれていたことが「なるほど」と感じることばかりでした。彼からのヒントは「答え合わせ」の要素です。
〇 当エッセイの参考図書としてちょくちょく登場するテッド・アンドリューズ
『アニマルスピーク~自然の力を借りる』の著者。まったく知らない存在でしたが、数年前、当著書との出逢いを突然与えられました。「自然の力を借りる」の部分、実はポイントなのかな、と。
世界には素晴らしいティーチャーがたくさんいます。「鵜呑み」にすることなく、取捨選択をしながら、自分の人生の「肥し」にさせてもらおう、と思いました。私たちの咲かせる人生の花は、自分色でしかありませんものね。そのために他の人のエッセンスを活用させてもらう。どんなに素晴らしい人の、どんなに素晴らしい理論でも、使い方を誤れば、それは時に「毒」になります。この世のすべてが「諸刃の刃」である、ということがわかりつつある段階です。もちろん、私の考え方も。けれどそれらもすべて必要なもののはずです。
なぜか追記が本文になりましたね。
これはこれで楽しいかも。
自己表現の形は自由に。そんなメッセージがどこからか聴こえてきたからなのかもしれませんから。
当エッセイは、私自身の大きな一歩になります、確信を感じます。