「荘子」に触れてみた。まったくわからない。
これが今の私の段階です。
「荘子」について書かれた本、みてみると私の手元にある本は「55版」。2010年の本なので、もしかしたらさらに増刷されているかもしれません。
私にはまったくわからない、数ページ読んで撃沈状態のこの本の内容をこんなにも多くの人が理解できている、ということの方が不思議とも言えるくらい。
理解ができないんです、私の頭では。だからと言ってこの本の内容、ここに書かれたものがいけないとか、何か文句を言いたいとかそんな気持ちはまったく浮かんできません。
なるほど、書籍というものはこういうものなんですね。
そこに書かれた情報、その著者のハートが今の自分に合うか、合わないかだけのこと。もしかしたら時間が経ったら合うようになるのかもしれないし、ずぅっと合わないままなのかもしれないし。
だからと言って、その本の価値は変わらない、その本の存在は確固たるものとして、この世に生を放っているわけです。
例えば、この本に対して私が何かネガティブな感想を抱いたとすれば、それは私のこころの中の声が浮かびあがっているに過ぎず、その対象を便宜的にこの本に向けているけれど、本来その感情は自分自身に対して感じているもの。
こういう考え方を心理学の概念では「投影」と言ったりします。
ということは、今の私は「合う」「合わない」の識別はするけれど、だからダメとか相手をジャッジする気持ちは薄れている段階。もちろん、たまたまこの本に対しては、ということなんでしょうけど、「投影」の事実は浮かびあがっていないようすです。
まず、その事実を確認することができました、この本との出逢いによって。
私たちはさまざまな場面で、人からジャッジされたり攻撃の意図を感じたりするものですが、実はそれはその人自身が自分に向けたものであるという大前提を抑えていれば、本当はあまり気にする必要はありません、それでも気になってしまうのが私たちの常、だということみたいですね。
こんな気づきも生まれました。
さて、この本が手元に届いたのは昨日。
当エッセイは翌日のきょう、執筆しています。
そういえば、となんとなくページをめくってみたら、『自ら然る』という言葉があって、どうもこれは「自然」のことを意味しているらしい、ということがわかりました。そしてそれはどうやら私たちが認識するところの「神」のさらなる捉え方をあらわしているらしいことも。
読んでいけばいつかはわかるのかな、かすかな光が視えてきた気がします。
荘子についての説明書きで、個人的に響いた点。
『士官の心を棄てて自由な生涯を送り、思索と著述で身を終えた』
数ページを読んで「撃沈」した本の中にもこんなにもたくさんのプレゼントが隠されていました。
さらに「55版」の意味。一般的には「5」には「変容」の意味があると言われています。さらに調べてみると「多才、変化、活動的」、マイナスの意味として「落ち着きにかける、不摂生」が出てきました。「55」には「大変容のチャンス」とも。
本って夢がいっぱいつまった宝箱みたいですね。
得るものがあると感じられないから、とその本を敵視してしまうのは、もったいない気がします。せっかくの縁なんですから。
※ 追記
著述家、随筆家、の言葉が浮かんできました。
参考 『荘子 第一冊』 金谷 治訳注
さらに、私は本に対しての敬意が少なかったと、今浮かんできてくれました。敬意というか、その存在を大切に思って尊重する、という気持ちです。
本は読み手によって価値が変わるのはあたりまえなんですね。同時に本そのものの価値は変わらない。