蜘蛛にまもられてランチに行ってきました。
出かけようと自転車置き場に行ったら、自転車に蜘蛛がいます、必死に蜘蛛の巣をはっています。
どうしようかな、と思いつつも、蜘蛛にもメッセージがあって、確か良い意味だったことを思い出し、ちっちゃな蜘蛛なので一緒にサイクリングすることに。
ランチとお買い物をすませ自転車に戻ると、なんと、まだあの蜘蛛君がはりついています。
全然動かないので死んじゃったのかな、だとしたら逃がしてあげた方が良かったかな。
頭がいろいろと動きます。
ここまで一緒にいるんだったら家に戻るまで一緒にいても同じだ、と思い、またも一緒にサイクリングです。
家のすぐそばまできて、蜘蛛が生きているのか死んでしまったのかを確認するために蜘蛛の巣をちょっと引っ張ったら、ちゃんと生きていました、一安心です。
マンションにたどり着きましたが、あとは蜘蛛の自主性にお任せ。
家に戻ってきて「蜘蛛」について調べてみると、やっぱりいい意味しかありません。
『天と地を結ぶもの』
『天から幸運が下りてくる象徴』
『死と再生のシンボル』
『大地の豊かさのシンボル』などなど。
そして。
蜘蛛は古代文字の番人だったことがあり、「言葉の紡ぎ方」を教えてくれる存在、だと。
『紡いだ言葉が網となり、読む人の心を捉える日がくるかもしれません』
これって、最高のご褒美じゃないかしら。少なくとも私にとっては。
私たちは「虫」をみるとたいていいやな気持ちになって、追い払ったり、時に殺したり。私ももちろんそのタイプでした。
ここ数年、虫君にもちゃんと役割があるんだから、と姿を見かけてもほとんどスルーすることが多くなりました。たとえば犬猫ちゃんを悩ますノミやダニだって、ちゃんとお役目を持っていて、犬猫ちゃんはそのお役目を尊重している、というお話を目にしたことがあります。以来、むやみに虫よけスプレーなどに頼らなくなりました。
いたら、いた、だ、と割り切って。そのお蔭もあるのでしょうか、わが家では14年間、ノミ・ダニに苦しめられたことはありません。虫よけもしていません。何一つ。
それでも大丈夫。こちらが敵意を示さなければ虫はこちらを必要以上に攻撃しない、という話も目にしました。
そんな心理作戦がうまくいっているのか、わが家には虫に対する「撃退」エネルギーがありません。愛猫・海・うみだけは虫の姿を見かけると狩猟モードに入って大変ですが、私が見る限りではあれはゲームです、虫君と一緒に遊んでいる感じ。サバイバル・ゲームの深刻さは感じられません。
何が言いたいか、というと、虫君も自然の一部、私たちの味方として存在していることの方が多いんじゃないでしょうか、ということです。
蜘蛛はサイクリングする時に、私に敵対心を示しませんでした。自分のお仕事で精一杯、という感じでしたよ。だったら何も無理やり追い払う必要はないですよね、毒グモじゃないんだし。
それより何より、嬉しいメッセージをもらえちゃったことの方が、私にとっては意味があります。
蜘蛛。
言語の父であり、神秘の作家、として、古代、大活躍をしていたそうです。
※ 追記
当エッセイを続けてご覧いただけている場合にはおわかりになるかもしれません。「書く」ことは最大の「癒やし」につながる、ということ。「癒やし」は同時に「自己実現」でもあること。
私が「書く」「描く」ことをおすすめしていることの理由はそこにあります。
当エッセイ執筆中、画面の下に「サポート」マークが。よくわからないけど、このホーム・ページの大元のところのシステムのようです。
知らないうちに「サポート」マーク。私たちは気が付かないだけでいつも誰かのサポートを受けているんだよ、のメッセージを感じました。
参考 『アニマルスピーク~自然の力を借りる』 テッド・アンドリュース著