「すべてがあって自分の命がある」
呼吸とつながっていて浮かんできた概念。
私たちは、例えば直接的に応援してくれる人たちのお蔭で成長することができます。
間接的に応援してくれる人たちのお蔭でもありますね。
さらに、一見攻撃をしてきたり、足を引っ張ろうとして来たり、そんな人たちによっても、結果的に私たちは成長させてもらえます。
また、自然は私たち人間のサポーター。時に補完し合ったり、時に協調し合ったり。
ということは、私たちの命一つ一つがすべての他者に育ててもらっていることにならないでしょうか。
過去の先達たちも含めて、すべて。
そう、この地球に存在したことのある命すべてが、今の私たちの命につながっている。
この全体性の感覚が、ストンと腑に落ちました。
今まで言葉だけで、例えば「ワンネス」という概念を理解してきたつもりですが、その感覚がリアルに、「あっ、こういうことだったんだ」と腑に落ちてくれたのです。
森羅万象すべてのものに魂、霊が宿る、というのが日本古来の「八百万の神」の概念です。そのすべてが自分の命とどこかでつながっている、あるいはつながっていたことがあるのではないでしょうか。
それが、私たち一人一人に起きている現実。
なるほど。これだったんだ。大いなる一つ、とか全体性、とか、は。
もしかしたらこれが宇宙レベルにまで拡がるのかもしれませんが、きょうのところは、一応「八百万の神」ぐらいのところまでで。と言っても実際には、宇宙レベルも含んでいるんでしょうけど。
すべてがあって自分の命がある。
すべての命に、私たち一人一人の命は育ててもらっている。
その感覚をハートで感じながら、久々に「無条件の愛」のセルフ・ヒーリングをしていたら、クラクラしてしまいました。気持ちいいクラクラ。
私たちは誰かに傷つけられた気持ちになっているけれど、実は育ててもらっていた。
逆に私たち自身が誰かを傷つけてしまって罪悪感にさいなまれていたけれど、実はそのお相手を育てさせてもらっていた。
としたら ?
他の誰かを憎んだり、恨んだり、また自分を攻撃したりする意味はなくて、すべてに対して「ありがとう」だったり「慈愛」の気持ちだったり。そこまでいかなくても「敵だ」と感じる必要性がなくなりますね。
いつもこの気持ちがキープできるかどうかはわかりません、きょうの、一瞬のことだったのかもしれません。
もしそうだとしても、それが腑に落ちたことは、何らかの成長の証なのではないかと。
私たちの感情はなかなか一定しません、あっちにいったり、こっちに来たり、アップダウンもあったり。
それでも少しだけ「平和」な気持ちが味わえて、とても幸せな気分になりました。
※ 追記
ずぅっとどうしようかと悩んでいた当「カテゴリー」初のエッセイです。
「神」は私の中では「カミ」あるいは「シン」なので、ここでは「カミ」としています。「シン」だとわかりにくいでしょうから。でも「心」とつながるかな~、とかも思っています。
前エッセイでの胸腺チャクラのお蔭なのでしょうか、ハートからの表現段階に入れたみたい。
だといいんですけれどね。