ものすごい解放感が訪れています。
前エッセイでお話したユング学校、卒業のお蔭のようです。
ドイツの精神分析家・フロム曰く、私たちには「自由からの逃走」という心理があるんだそうです。
フロムについても、「自由からの逃走」についてもきょうはじめて知りました。ユングの流れで。
ユングはニューエイジ・ムーブメントに大きな影響を与えた人物なんだそうですが、「ニューエイジ」について調べているうちに、フロムの名前にたどり着きました。
深く理解はできていないので、まったく個人的解釈です。フロムによると私たちは自由であることに対して不安を抱く生き物であって、その不安から逃げ出すために権威ある存在に身を投げ出し、さらに依存する、という行為に走るんだとか。そうすることによって「自由であることの不安」を感じなくて済むようになる、と。
この考え方の何が素晴らしいか、と感じたかというと、「自由であることの不安」という概念です。
私たちは自由は素晴らしいこと、縛りがなくてそれこそ自由でいられるから、と捉えていますが、それに対して縛られないことの不安があるという点。
そう、自由と不安が表裏一体というか、自由には不安がつきものだ、ということ。
私は、「自由」という言葉が大好きで、誕生日的に視ても、「自由」の象徴みたいな魂なんです。が、実際自由になり切れない自分に忸怩たる思いをすることがあって、なぜなんだろう、と感じていたんですね。
その答えが「自由になることの不安」。不安を感じるのが怖くて自由を選べなかった。ということは「不安」はいけないものではない、不安をどんどん感じていけば、その裏に自由が隠されている、ということになるのではないかと。
不安があってあたりまえ。その状態が「自由」なんです。
その不安を感じたくないばっかりに、何かにすがりついて依存しようとする。そこには不安はないのかもしれないけれど自由もない、ということです。
権威に自分自身を投げだして依存するか、それとも不安を感じながらも自由でいるか。
現実にはどちらもあるのかもしれません、が、不安を感じながら自由でいる選択をしよう、と「自由の象徴」である私の魂は、その決断の時がやっと見つかりました。
ここからさかのぼって考えていくとわかります、私にとってここ数年、ユング理論は一つの「権威」だった。私はユング理論に自分の身を預け、依存していた。
ところがきのう「ユング学校、卒業」のメッセージが届き、知らないうちに「権威への依存」を手放し、「自由になることの不安」を手に入れたというわけです。
「自由になることは、すなわち不安を伴うもの」であるのだから、そこを認識しておけば、もし今後何かの権威に依存した時も、「あ、私は今、自由であることの不安から逃げているんだな」と自分を見つめることができます。
その時は、自由よりも不自由を選んでいる時。
なるほど、不自由と安心感も表裏一体なのですね。ニューエイジ思想というのは、よほどのことがない限り、不自由であることの安心感に頼る機会が多いものではないでしょうか。
「自由であることの不安」と「不自由であることの安心感」、この両者のバランスを良い塩梅にしていくことが今の私の課題なのだな、とわかりました。
そういえば、今朝、呼吸とつながっていた時、意識の中に蝶々のビジョンらしきものが浮かんできました、私は滅多にビジョンは視ないというか感じないタイプなのに。
蝶々の意味するところは、大きな躍進とか運命の転換、変容、死と再生、そして人生を舞う歓び、などなど。
前進。自由であることの不安とともに。