自分にとっての「好き」はなんだろう。
私は小さい頃からイエスorノーがはっきりしていた。
ところが学校に入った頃からか、「協調性」とか「和」とかを求められ、なんでもイエスを求められた。
ノーを言ってはダメ。
それは周りに対してはイエスかもしれないけれど、自分のハートにはノーを言っているようなもの。
今思うと、そんなことがずぅっと続いているうちに、「イヤなものはイヤ」と言えない自分になっていた。
「好きなものは好き」とわからなくなっていた。
きのう、自分の意思でホット・ヨガのレッスンを休んだ。
理由は、「暑いから」。
ホットなんだから暑いに決まっている。が、それでも先週まで続けていた。
先週、施設内の機器類の故障でもあったのか、湿度100%の中でレッスンが行われた。もちろんそんな説明はなかったけれど、肌は一瞬にしてべったり、サウナ状態。床までベチョベチョだ。
息苦しくて金魚鉢の金魚状態。新鮮な空気が欲しかった。
結局、「イヤ」を表現できないまま一時間のレッスンを終えた。
家に帰った瞬間、軽い熱中症のような症状が出た。
「イヤ」を表現できなかったことのあらわれかもしれないし、実際サウナ状態の中でしかも換気のなされていないところで呼吸法を取り入れたヨガができるはずはない。
念のため、スポーツ・クラブにはその旨のクレームを出したけれど、それが改善されるかどうかはわからない。
大好きなレッスン。
それはある程度の環境が整ってのこと。
猛暑日にわざわざ「ホット・ヨガ」をやる意味が個人的に見つからなかった。
休んで良かった。
そんなちっちゃなことでも意思表示できなかった自分が情けなかったと同時に、自分の「好き」を最優先することの意味を改めて思い出した。
ヨガは自分自身を感じるために行うもの。
湿度100%の環境の中では、息さえおぼつかない。ということは、リラックスなんてできるはずもなく、ただ汗が流れるだけ。
ただ汗をかきたいだけなら、何もホット・ヨガにこだわる必要もない。
自分の意思で自分自身のために、やったり、休んだりを決めていい。誰の顔色をうかがうこともなく。
夕方、風がふいて割とさわやかだったので、愛犬・華実と海の公園までお散歩の足をのばした。
思ったよりは暑かったけれど、自然の風に吹かれて、大地をふみしめて、夕陽を眺めて、私にとっては快適な時間、華実にとっても。
自分の好きを想い出した。ホット・ヨガのおかげで。
ほんの少しの前進。
またも華実が一緒だった。