父子癒着、とける

 

癒着という言葉をご存知だろうか。

 

人間関係において、「共依存」と言われるような関係。多くは「父子癒着」「母子癒着」などの表現で使われる。

 

たいていの場合、お互いの間で線引きができずに相手と自分が同一化してしまうことによる。

 

簡単に言うと、接着剤でふたつの魂がくっついてしまった状態。さらに身近な言葉で言うのなら腐れ縁がそれに近いかもしれない。

 

私たち女性はたいていの場合、「父親コンプレックス」を持っている。男性の場合は「母親コンプレックス」。「ファザコン」「マザコン」と呼ばれるものがそうだ。

 

たいていの場合、としているが正確にはほぼ全員がそうだろう。ただしその加減が強い、弱いの違いはある。

 

私は幼い頃から父とのつながりが深い、と感じていた。父は私をかなりかわいがってくれたし、私も何かあると母よりは父に相談することの方が多かった。だからと言って自分が「ファザコン」だと感じたことはなかった。

 

父は生真面目な職人で、何より完ぺき主義、こころは家族で一番繊細だったかもしれない。

 

晩年、仕事が思うようにできなくなり、躁鬱病を患った。その治療のために大量の薬を処方され、結果、パーキンソン症候群という、神経が思うように動かなくなる病気になった。症候群とついていたのは、薬の影響との因果関係は認められない、ただし、症状はそれと同じ、というものだったため。

 

元々ナイーブな父が、仕事という生きがい、アイデンティティを失い、薬にコントロールを頼る生活になり、最後は自分の足では立てない状態にまでなっていった。

 

その過程で私にも鬱傾向があらわれ、睡眠薬と精神安定剤を飲みながら日常生活を送っていた。

 

その時の医師に「家庭内別居という言葉があるように、たいていの人は家族とはまるで別の生活を送るのに、あなたはお父さんとのつながりが深いのですね」と言われ、はじめて「えっ?  そうなの ? 」とビックリしたほど。

 

私は薬に頼る生活は早めに卒業したかったので、割と短期間の服用で済んだが、父の薬を減らしていくことは無理だった。最後に飲んでいたのは十数種類の薬。父は入院していたので、それらはすべて医師の判断によるものだった。

 

私が薬物に対して、あまり良い印象を抱いていないのはそのせいでもある。

 

父の痛みと薬物がリンクするから。そこには私自身の罪悪感も存在する。

 

「お父さんを助けてあげられなくてごめんね」

 

もっとも今は、その感情こそ、エゴだとわかるけれど。

 

父は、私に自分の望む理想の女の子像を強く投影させた。

 

女の子なんだから、いつもニコニコしていなさい。笑顔でいればみんながかわいがってくれるから。

 

女の子に学歴なんて必要ない。

 

女の子なんだから、女の子なんだから、女の子なんだから。と。

 

私は父のことが好きだったが、父の理想の女の子像は嫌いだった。

 

「私は私」

 

幼い私は何度もその言葉を飲み込んだのだろう。

 

そして、大人になり、結婚した今でも父の理想の女の子像と格闘している自分がいることに気づいた。

 

女の子なんだからできるだけ笑顔でいて、女の子なんだからあまり自己主張しないで、女の子なんだから仕事でも張り切りすぎないで。

 

さらに私は父との自己同一化を目指していたことに気づいた。

 

父の言うとおりにしていれば、私は父から愛される。父から愛されるために、父と同じ一生を送ろう、自分を捨てて父好みの生き方をしよう、と。

 

これが潜在意識だ、私が自分で認識している「顕在意識」とはまったく異なるもの。

 

父はすでに他界しているのに、私のエネルギーは生前の父と癒着していた。そのことに気づいたのがきのうのこと。

 

癒着という概念には数年前に気づいていたし、父とも母とも別の道を歩きはじめるという意思選択も行っていた。

 

それでもまだ癒着していた事実に驚く。

 

よほど父との縁が深かったのだろう。

 

が、決別、私は私、私の一生は父のものではないから。

 

完璧主義な父の影響で、精神的にストイックになることも少なくなかった。本当の私は、かなりの楽天家なのに。

 

完璧主義と楽天主義は、実は表裏一体。表と裏、光と影、私たちの意識エネルギーはそうできている。

 

完璧主義が強ければ強いほど、反転した時の楽天主義も強くなる。逆もまたしかり。しかもどちらも同価値。優劣の差はない。お互いにお互いを補完し合っている。

 

私はいつから父の意識に縛られていたんだろう。おそらく、かなり幼い時から。いや、おそらく生まれる前からそういう契約をしていたのかもしれない。

 

父子癒着は、女性にとっては大きな課題の一つ。その課題をなんとかセルフでクリアしたのが、私の場合、今。

 

私の体験でいうと、愛情の深さ、強さと癒着のエネルギーは比例の関係だ。

 

もしもあなたが情の深い女性で、それでも生きづらさに苦しんでいるとしたら、そこに強い「癒着」の事実があると考えられないだろうか。特に男性問題で苦しんでいるとしたら。

 

「癒着」の「癒」は「癒やし」の「癒」だとたった今気づいた。

 

なるほど。

 

私たちは大きな癒やしを得るために「癒着」というマターを活用させてもらっているのかもしれない。強い癒着ほど、強い癒やしを得るための重要なツールだということだろうか。

 

今朝、眼が覚めた時、空気音がマルチに感じられた。

 

何かの音が突出して聴こえるのではなく、全身がさまざまな音に包まれ、それが空気と一体しているように感じたのである。柔らかな空気に全身が包まれた感じ。

 

癒着のエネルギーは、連続性がない、「〇」を感じられないのだ、とはじめて気づく。

 

「〇」を得るための癒着エネルギー。それを父と共有していた。「〇」を感じた、ということは、父との癒着はとけた、ということなんだろう。

 

前エッセイ 

 

 階級社会という社会通念、手放し

 

までの一連の流れは、このためだったんだとわかる。

 

意識の流れは止められない。

 

家父長制度との契約解除

 

というエッセイを書いたのが7月27日。10日たったきょう、その意識が現実のことになった。

 

これは家父長制度がいけない、という話ではない。すべてはバランスが大切なのだ、というお話。どんなに良い制度でもそこに頼りすぎると、必ず調和のバランスが崩れるということではないだろうか。

 

 

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※ 追記

 

ベランダの洗濯ものに小さなバッタがしがみついていました。

 

バッタ君からのメッセージは「大きな前進。後戻りはできないよ」なんだとか。

 

 

 

 

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