ここ一連の解放運動、私の内部での。
いよいよ、「山」がきたようだ。
それは「階級社会からの卒業」という意識。
例えば家父長制度、医療社会、パターナリズム、これらに共通していたのが父権社会という考え方であり、階級社会、という概念であり。
簡単に言ってしまうと、意識の上での上下関係。
パターナリズムのエッセイの中に、親が子どもの人生に「介入」「干渉」する、という考え方があった。
この前提は、親が上、子どもが下、という位置関係がある、という意識に基づく。
親という役割、子どもという役割を縦に並べて考えている。
これを横に並べてみたらどうだろう。
親という役割の人と、子どもという役割の人がいて、けれど、その力関係も価値観も横並びだとしたら。
そこには「階級社会」という意識は必要なくなる。
もちろん「階級社会」のすべてが悪い、という意味ではない。
縦の関係もあり、横の関係もあり。
たまたま今は縦の関係に重きがおかれているけれど。
その「重き」は社会通念という意識グループ。けれどもしかしたら、私たち個人の中にも「縦社会に重きをおこう」という潜在意識が存在しているのかもしれない。
それを「良くないもの」と捉えれば、いつまでもその潜在意識は表面化しない。
「良い面もあれば悪い面もある」と捉えれば、その潜在意識は表面化する。そう、そこに光があたるのだ。
私たちにとって「階級社会」とは、「善」なのか「悪」なのか、けれど実はどちらでもない。
個々が勝手に「善」だったり「悪」だったりの判断をしている。
そもそも世の中にはさまざまな社会通念があるので、今は常識、の社会通念が、過去は非常識だったこともあるのかもしれない。同じように、未来ではまたその常識がひっくり返る時もあるのだろう。
たまたま私たちが生まれたこの時代では、一部の権力者が地球の恵みを独占しようとしている考え方が主流だけれど、地球の恵みはもともとは平等にシェアしなさい、と言われたものだったのではないだろうか。
いくつものプロセスを踏んでいるうちに結果として、階級社会が際立ってしまい、支配者と被支配者のような関係が一人一人の意識の中で育ってしまっているのではないか。
一旦リセット。
階級社会のポジティブな面もネガティブな面も。
それでも必要なら階級社会という概念は、また新たに芽生えてくるだろう。
あくまでも私の内部では「リセット」。フラット状態に近づいた。
この後さらにフラット状態がキープできるのか、あるいはまたも階級社会が大きく成長してしまうのか、すべて私の意識次第。
それでもリセットできて、たとえ一時的であったとしても、私のこころは軽くなった、解放が起きたから。
一連の解放の嵐の波を思うに、その時がきた、ただそれだけなのかもしれない。
それが私個人だけの波なのか、多くの人が同時に感じている波なのか、今はまだ視えないけれど、やがてその答えは視えてくるだろう。
ちなみに「階級社会という社会通念の手放し」が起きている最中に、「私は毒、私は穢れた存在」という巨大な嘆きの意識が湧いてきた。
これはおそらく、「女性性」「母性」の集合意識。抑圧され続けた女性性が今、解放の時を迎えた。
女性性は肉体上の性別関係なく、すべての人間に息づいているエネルギー。
※ 追記
当エッセイを書き終えた瞬間、香しい香りが。
愛猫・海・うみの巨大うんこです。
海・うみは肉体的には「雌」。
排便は毒だし作用でもあります。
女性性の毒だし完了。そう、さまざまな現象はつながりあっています。たとえそうとは思えない事でも。