わがベランダの花。
ダリアが枯れ始めてきた、夏枯れの様子。これは想定内。秋口にまた戻るらしい。
一時、中休みをしていたハイビスカスが盛り返し、きょうは三個、赤い花をつけている。
ペチュニア、サフィニア、苦戦。
100個花を咲かせるというミニ・ひまわりも苦戦。
一方元気なのは、ゼラニウムとツル性の濃いピンクのお花、確か名前は「サンパラソル」。
一度「大手術」をしたシマトネリコがものすごい勢いで葉を増やしている。
大きな鉢に植え替えたオリーブの木もかつてないほど大きな葉っぱをつけている。
真夏は花が少なくなる。
ハイビスカスがなかったら淋しかった。
一方、夏の花のひまわりがかなりの苦戦をしているのも、おもしろい。
ひまわりは梅雨の間に半枯れ状態に。
やはりひまわりには太陽が必要だ、ということなんだろう。
以前だったら、元気のない花をみると淋しい気持ちになったけれど、これが命というものなんだ、と思うと、枯れている花でさえ愛おしく感じられる。
その花は「たまたま」弱い命なのかもしれない。
植物にだって弱い命、強い命がある。
人間も同じだろう、一見弱い命、強い命。
けれどどちらが優れているというわけではなくて、そういうお役目があっての命なだけ。
すべては全体でのバランスの中で生きている。
目に映る世界だけがすべてではない。
すべてがつながっている。
つながったすべてで一つの世界をなし得ている。
ということは、たとえ、その時に半枯れになっている花があったとしても、一方でこれから伸び行く芽もあるということ。
私たちの運命も同じ。
一瞬、停滞しているように思えても、それは何かの準備期間なだけ。
今の状態がすべてではない、今の状態が永遠に続くわけではない。
夏休みに入っている花たちも含めて、命は雄弁だ。
語らない命は何一つ存在しないのだから。
※ 2019/08/05 追記
消えていく関係がある時、生まれくる関係が同時に存在している。
死にゆく命、生まれくる命。
どちらにフォーカスするのか、で私たちの生き方が変わってきますね、きっと。
けれどどちらも存在しているのです、本来。