私はいわゆる霊能者ではない。
一時、霊能者ってすごいな、うらやましいな、と感じたことがある。
自分のヒーリング能力が開花したり、動物とのコミュニケーション能力が開花したりして、顕在意識では、「全然すごくない」と感じながら、潜在意識のどこかでは「ちょっとすごいかも」と感じていたのかもしれない、とたった今思った。
同時に、「卒業だ」と感じた。
私たちは、神秘体験をした人、超感覚の持ち主に対して「すごい人」「素晴らしい人」と感じるような思考回路が備わっているのかもしれない。
それらは「個性」かもしれないけれど、特別な何か、ではないはずだ。
誰だって神秘体験のひとつや二つは、経験している、無意識のうちに。
自分の中にそういう意識がないから、「あ、今のは神秘体験だ」と感じられないだけ。
そのセンサーが発達した人を私たちは「霊能者」と呼んでいるのかもしれない。
二年くらい前に感じていたのは、私たちはまもなく、ほとんどの人が霊能者と呼ばれるような感覚の開花が訪れるだろう、ということ。無理をしなくても自然に。
ただ、それを受け容れられるか、そうでないかの違いはあるはずだ。人生の課題はみんな違うから。
「霊能者」を特別視して崇めていれば、おそらくその人はいつまでたっても「神秘体験」「超感覚」をすごいものと思って、「自分は違う」と感じ続けるに違いない。
「霊能力」そのものよりも、その人が「どこ」を視ているのか、「何」を感じているのか、その「どこ」「何」の方に私は感心がある。
そう、「霊能力」という「能力」を「どこに使っているのか」、「何のために使っているのか」。
ということは、「私には霊能力があります」とか「私は〇〇とつながることができます」とか「私には〇〇がついています」とか「私には過去生の記憶があって、過去〇〇という人物でした」とか、そういうことを前面に出してアピールしている人より、「私はこう感じるのです」「私はこういうビジョンが視えたのですが、それはこういうことではないかと解釈できるのです」というように、そのキャッチした内容そのものの「方向性」に断然興味がある、ということだ。
以前お話したことがあるかもしれない、私はすべての人が「チャネラー」だと思っている、そう名乗っていない人も。
「誰々につながっているチャネラー」よりも「こういう意識をキャッチしました」と自信をもって言い切れるチャネラーの方が個人的には好きかもしれない。
「誰々」「何々」を強調する人は、自分の底上げをしたいように感じるから。「こういうすごい人物、存在とつながっている私はすごいの」と言っている気がするから。それは言葉を変えれば、「等身大の私は小さいので何か大きい存在に庇護されたい」と言っているように感じるから。
「そんなことないよ、あなたはあなたのままで十分なのだから」
これはもしかしたら、私自身へのメッセージ ? 私も自分を大きくみせたくて仕方なかった時期が確かにあった。
話が脱線した。
私は、すべての体験は「神秘体験」なんだろうし、すべての感覚は「超感覚」なのかもしれないので、それをあえて「特別」なものと感じることもないな、と思った。
「超感覚」について、今、さぁっと調べてみた。「超感覚」は比較的多くの人に見られる能力で、「霊能者」と見なされていない人の中にも高い能力を持っている人がいるらしい、とのこと。おそらく日本人の多くは、欧米諸国の人たちよりも、この能力は高い。優劣ではなく事実として。
日本人と欧米人の脳と意識には大きな違いがあるとの説がある。その結果、「超感覚」は日本人にとっては得意ジャンルとなる。
なるほど。
今ふと浮かんだのは、「神秘体験」や「超感覚」、これは日本人においては元々「特別」ではなく、割と「普通」のことだった。それがどこかの段階で「特別」なことと受け止められるようになったのではないだろうか。
卒業、の意味は、「神秘体験」「超感覚」は「体験」と「感覚」に置き換えられるものであり、ごくごく普通のこと、日常的なことだ、と感じたから、「特別な何か」というとらえ方はもう卒業だ、という個人的感情にすぎない。