「背伸びをしなくていいんだよ」
桜の樹はそう言った。正確には、そう言ったかのような風に包まれた。
家のそばの桜林。小さな東屋でコーヒーを飲んだ。
誰もいない。一人ぼっちだ。それが気持ちいい。
誰もいない桜林は、滅多に遭遇できない。誰かしら必ず、と言えるほど先客がいるから。
風が心地よく、少しくらい暑くても私は外でホット・コーヒーを飲むのが大好きだ。
ふぅ、っとため息をつきかけると、桜が言った。
「背伸びをしなくていいんだよ」と。
また桜の樹に呼ばれたんだな、と感じる。
桜の季節、私はしつこいくらいに桜に呼ばれて、その桜林に日参する。
そこでサワサワっと桜の枝が揺れるのを眺めるのは、私にとっては至福の時間。
葉がサワサワ言う。
けれど実際には風の音だ。風がサワサワと話しかけてくれているのだろう。
桜の樹の精霊と風の精霊は、まちがいなく相性が良い、仲良しだ。
そこにちょこっとだけ混ぜてもらう。自然の一部として。
なんでも桜の樹は、「マザー・ツリー」と言われているんだとか。
調べてみると、桜だけ、ではない、森林などには母樹という木が存在するらしい。
母なる樹、母なる大地。
樹々の集まるところで母の懐に抱かれるような気になるのは、ごく自然なことなのかもしれない。
桜の樹が意味するもの。
死と再生、覚醒、だそうだ。
何かが終わりかけている。同時に何かが始まりかけている。
もしかしたらすでに、何かが終わり、何かが始まっているのかもしれないけれど、私はそのタイム・ラグを楽しんでいるようだ。無意識のうちに。
私は基本「がんばり癖」がある。どうしても頑張ってしまう。
そう言えば、きのう、その桜林のすぐそばのテニス・コートで、レッスンをしているインストラクターが「力を入れすぎる必要はないですよ」と生徒さんに穏やかに伝えていた。
その言葉は、私自身に向けられたものだったのかもしれない。
私たちは、自己愛に「欠乏感」が生まれると、どうしても自分を大きく見せようと虚栄心が働き、その結果、がんばってしまう生き物だ。
がんばりすぎかも、と気づいたということは、その虚栄心が膨らみかけているけれど、大丈夫だよ、そのくらいなら、という、誰かからのメッセージを受け止めたからなのかもしれない。
虚栄心が膨らんでいる時は、人は自分に対して「無価値感」が膨らみつつある状態。
虚栄心と無価値感はワンセットと捉えてもいいかもしれない。
ふと調べてみると、そもそも無価値感の根底にあるのは虚無感だそうだ。無価値感は妄想なのだと。
そう、本来の自分ではない状態を勝手に思い描いて、「自分には価値がない」とジャッジしている状態。
ということは、等身大のあるがままの自分を受け止めてあげれば、その無価値感は薄らいでいく。
そもそもが幻想なのだから。
桜林にいたのは、ほんの数分だったけれど、これだけの癒やしを与えてもらえた。
彼らはもちろん、何もアピールしてこない、ただそこに在るだけ。
その存在感こそに命がある、存在感そのものが生きている。
私たち人間もそうなんだよ、と教えてくれているかのように。