まずい、ドМかも。
耳の痛い言葉が快感になってきた。
きょう遭遇した耳の痛い言葉。
それは「ペット依存」。
ペット依存について書かれた記事を読んでガクゼンとする。
私は、立派なペット依存だ。
ところが記事を読み進めていくうちに、自然にヒーリングが起きる。
なぁんだ、日本でペットと暮らしている人は、ほぼみんなペット依存だ。
その事実に気づいていないだけ、だ。
私の場合は、おそらく「ペット依存はいけないもの、恥ずかしいもの」と認識していたのではないか、潜在意識の部分。
そもそもペット、というのは、野生の動物ではなく、人間と暮らすための生き物としての存在価値を備えている。
そんな中、猫にはまだ自分がある。
犬は完全にヒトと暮らすために作られた生き物。もしも彼らが野生環境にあったら、そもそも避妊とか去勢とかワクチン接種とか、虫よけとか、その手のことは必要ないはず。
ヒトと暮らすために、「人間流ケア」の数々がまるで「必須」になっている。
「人間流ケア」をたくさん施した飼い主ほど、ペットは自己の一部として定着し、結果ペットへの愛着が深まるのだそうだ、その情報によると。
これを自分のこととして考えてみる。
ふむふむ、と思うか、何言ってるのよ、と思うか。
私は、改めてペットとして生きてくれている彼らの特性に驚く。
同時に、人間はみんな淋しいんだな、とも感じる。
ペット、という生き物を創り出した以上、ペットのお世話をするのは当然のこと。
ただし、「自分はペット依存なんだ」との認識をするかしないかで、その依存度は変わってくる。
私は、このことに今、気づけて良かった。
ペット依存が、深いペット・ロスにつながることは、こころの専門家の中では常識らしい。
そして、日本では「自我」が確立していない人が多いため、ペット依存の傾向は欧米人より遥かに高い、という。
自分自身が自分自身の力で幸せになるために、できること。
「自我」の確立。
耳の痛い「ペット依存」という言葉は、思いがけないGiftをくれた。
耳の痛い言葉に出逢ったら、逃げるのではなく、突き進む、その言葉に向かって。
するとそれは必ず私たちの宝物になる。
きょうの宝物はまちがいなく、ペットたちがくれた贈り物。
これ自体がペット依存なのだとしたら、はい、そうです、私はペット依存です、と胸を張ってしまうかもしれない。
深い「病」にならなければ、ペット依存も悪くはないのかもしれない。自分ではシンプルなケアを心がけているので、依存はないだろう、と感じていたけれど、日本人全体のこころの特性、そして住環境は、どうやったってペット依存になるんだそうだ。
その事実を受け容れることが自己肯定。
そうやってまた一つ「自我」の確立に近づけばいい。