私は「自伝」を読まない。
もしかしたら初の「自伝」かもしれない。そこまでハートをわしづかみにされる人に今まで出逢ったことがないということなのだろう。
スイスの分析心理学者カール・グスタフ・ユング。彼の場合、信奉者やファンとアンチが真っ向から対立する立場にある。アンチ、という言葉を使うのだから当然かもしれないが、好き嫌いがわかれるタイプだということだろうか。少し距離をおいてみるのなら、彼は、一般に「オカルトチック」とされる部分で、多くの誤解を招いてしまっているようだ。同時に彼の「神」理論は独特だ。バクっとした表現をしているのは、ここでそのことを議論したいと思わないから。ユングを「悪魔」としている人たちがいるのも理解している。ユング自身、本書の中でそれらしきことを叫んでいる。
私は、ユング信奉者ではない。が、ユングに「何か」を感じている。以下はあくまでも「私はこう感じた」レベルの話だ。
さて、ユングの心理学理論は知らないうちに、私の意識に浮かびあがってきた。知らないうちに、私のカウンセリング・セッションに組み込まれていた。
これだけでも、十分に非難される内容かもしれない。それまでユング理論のユの字さえ知らなかったのだから。
私のセッションにユングの理論が組み込まれているらしいと気づいたのは、確か一昨年の頭だった。以来、それらしきサイトをのぞいたり、入門編という、私レベルでもわかるように創られた本を数冊手にしても、ユングの世界は難解だ。
私が理解できているのはもしかしたら、「影・ジャドゥ」理論だけかもしれない。
『自伝』には過去に何回か手を伸ばしかけたけれど、まだその時ではなかった。
突然、その時がきた。きょう、手元に届いた『自伝』をさぁっとめくって、ユングの息吹きを感じた。とても読み込めるまでにいたっていない。それなのに、人間「ユング」はなんて繊細で、なんて悲哀と苦悩に満ちた人なんだろう、と涙があふれてきた。
それなのに、それだけでかっこいい。
なんてボキャブラリーのなさ。
とにかく、かっこいいのだ。
こころにものすごい痛みを抱えて、とことん孤独を感じて、自らの死後人目にふれるよう自身で設定したこの本の、まだ見ぬ読者にさえ、おそれを感じて。
こんなにも偉大な人物が、こんなにも偉大だからなのか、自分の言葉が波紋を投げかけるだろう事実におびえている。
それでも「書く」と、自らペンを取ったという。そこに至るまでの苦悩、発刊後の苦悩、そんなことも含めて多くは時系列で記されている。
ユングの理論に「共時性=シンクロニシティ」というものがある。「共時性」について改めてネットで調べてみると、ユング理論の根底には、老荘思想があるのではないか、と検証しているサイトに遭遇した。そのサイト記事を読み進めると、まだ読み込めていない「ユング自伝」の色合いが浮かびあがる。
改めて、「なぜ、ユングなのか」がおぼろげながらわかったような気がする。
なぜ、今なのか。なぜ、今の私にはユングなのか、ということも含めて。
これほどまでにユングの言葉は生きている。ユングのハートが生きている。
読み進めるだけで、ユングの鼓動が伝わってくる。
ユング晩年の写真をはじめて目にする。
壮年期のユングとは、別人のような顔に驚く。それだけ多くの人生を織り重ねたということなのだろうか。
この本の内容が、ハートに響く人、拒否反応を示す人、何も感じない人。
その比率がどれだけのものか、私にはわからない。
ただ、私は、響いた、響きまくった。
この本は、ユングが未来に向けて書いた書簡なのだ。書くことで、ユング自身、最後の自己実現を進めている。
徹底的に、内に眼を向け続けた偉人、ユング。
人は肉体を失っても、その息吹きを吹き返せる。私たち人間は書くという力を与えられた。書くことは魂の息吹きと同調すること。それは時を越える。
おそらく、この『自伝』を読み終えても、私はユングの理論を理解はできない。
が、ハートの片鱗は感じ取れる。
それだけで十分だ。
81歳の老人が自らペンを取ったという、この自伝。
ユングは最後の瞬間まで妥協しなかった。人生を自分自身の手で締めくくった。その人生に対する他者からの評価がなんであれ、自身にとっての最高のしめくくりだろう。
世の中に『伝記』というものはたくさん存在する。
私は、あえて『自伝』を遺したこの老人に、こころから感謝の気持ちを送りたい。
ユングへの初の私からの手紙として。
※ 追記
当エッセイは、2019/07/09に執筆しました。なぜか更新できず。その晩、眠れなくなってしまいました。ユングのエネルギーにあたった様子です。湯あたりのようなもの。私は時々、この手の「エネルギー」あたりをします。
翌7月10日。本書を読み進めていくうちに、
第一段階 とにかく気持ち悪い。ユングの世界は独特です。自ら「神話」とするこの話は、私のお単純な頭にはどうも相性が悪いのか、読めば読むほど、ユングの世界の複雑さが私のそれとかけ離れ過ぎているようで、頭が拒否しているのか、ハートが拒否しているのか、とにかく違和感ばかりが膨れ上がります。
第二段階 ところがそれが「ふ」と気持ち良さに変わりました。ユングの言葉と、この本に託されたエネルギーで「ヒーリング」が起きてしまったのです。まだ「幼年時代」「学童時代」の途中までしか読めていないのですが、ユングが書き記したことの中に、私自身の幼少期の記憶と重なるものがあったようで、心理学でいうところの「インナー・チャイルド・ヒーリング」が自然に起こってしまった。私の頭ではそうとしか考えられません。
全身がポワンとして、ゆで卵の薄皮がペロッとはがれた感覚です。とにかく気持ちいい。
これがユング・カウンセリングの実力なんだ。これがユングなんだ、と改めてこの本とのご縁に気づきます。
そしてきょう、翌7月11日。本書を読むとユングに愛着障害の傾向が感じられます。幼い時の母との関係、父との関係、そしてフロイトとの出逢い、決別のエピソードをみてもそれらがクッキリと浮かびあがってきます。
これはユングをジャッジしたり揶揄しているのではなく、そうなのだ、と私は感じた、ということです。自覚はなくても私たちはみんなどこかしらで愛着障害の傾向があるはずです。
愛着障害は、時に境界性パーソナリティー障害の傾向を伴うことが多いとされているのですが、フロイトとの蜜月時代の様子、決別時の様子は、その傾向が顕著にあらわれています。そしてシニア期の心筋梗塞という病。これは東洋医学的にはアップダウンの激しい性格にあらわれるとされ、またスピリチュアル的には愛の枯渇によるものとしている説があります。
無理やりこじつけたいのではなく、私自身が愛着障害なので、ユングのこころの動きとの「シンクロ」に驚いてしまったのです。これだけの人物なので、自身でそれを認識し、ケアをしていただろうことは想像に難くありません。一方、これだけの人でも、私たちと同じような悩み、苦しみにあえいでいた、という事実、同時に、それを自身の理論に活かしているという点で愛着障害に対する私の意識は大きく変わりました。
そう、愛着障害も私たちにとって、大切な存在だ、ということです。
私が自分は愛着障害だと気づいたのは4年前。同時に、自分の影に徹底的に向き合い始めました。それによって今はかなり緩和してきているのですが、その「影」の理論こそユング理論だったと気づいたのが一年半前。当時、私は何も知らずにただ「自分の闇に眼を向けよう」と感じていました。
ユングのこころの動き、わからないところはまったくわからないのですが、大切な人との関係時のこころの動きはまるで手に取るようにわかるのです。
私自身の愛着障害による境界性パーソナリティー障害の傾向がきょう薄れていることを認識しました。今までなら、どうしようもないほど怒りを感じるはずの相手の言動に、「あ、そう来ましたか」と笑っている自分。
これもユング『自伝』によるヒーリングなのかもしれません。
なるほど。ユングの『自伝』には、ユングのウソ偽りのない気持ちがこれでもか、という風につまっています。
きまじめなユングらしく、「誰かにとって目あたりが良いように」という「編集」を一切していないらしいことがわかります。
コビがない。取り繕いがないのです、一切。
だから、読む方にも相当の覚悟がしいられます。生半可な気持ちで飛び込むと、痛い目に遭う。
この本をもってしても、私はユングの理論は100%理解できないでしょう。
それでもユングの「手紙」には、人を癒やす強烈なヒーリング作用がある、ということがわかりました。
合う、合わないはその人の人生の課題によるもの。合おうが、合うまいがどちらでもいいのです。
「全受容」
ユングが全身全霊でしたためただろう『自伝』から、その想いが私のハートに届きました。
さらに。
ここまで執筆し、まだ更新できずにいると、『自伝』下巻が手元に届きました。付録ページをめくっただけで、人間ユングの魅力がありありと伝わって来ました。ユングが私の目の前で息をしているかのように。
書物は生きている。生きて、読む人のハートに飛び込むのですね。ただの紙の束、ではないのです。
最終的に当エッセイの更新は本日2019/07/13になりました。ユングの『自伝』は読み進めれば進めるほど、深いレベルでのヒーリングが起きることが確信に変わった、そのことを記すために。