ひかりのしずく第2章幕開けに際して

 

ひかりのしずくシリーズ、いよいよ第2章の幕開けです。 

 

2019/06/26に突然、第1章の完結のサインが来て、これからどうしよう、何をしよう、と考えましたが、第2章もただ想いのままに言葉を連ねていこう、という気持ちに落ち着きました。

 

この手の記事はカテゴライズすると訪問者にとって読みやすいというのが定説です。カテゴライズを考えようとしましたが、断念。

 

私は日常生活に支障はありませんが、ADHD・注意欠如 /  多動性の傾向があります。診断などを受けたわけではなく、性格的特徴として、ストレスが膨らむと時にこれらの傾向が強くなることがあるという状態です。

 

多動性傾向のある私がカテゴライズを真剣に考えるというのは、相当なストレスになることがわかりました。

 

ですので、当エッセイシリーズも、ただ想いのままに言葉をしたためる、という方針で行くことを決めました。

 

これは自分を受け容れるチャンスにもつながります。

 

ありのまま、という言葉が誤った解釈で拡がっているようですが、ありのまま、というのは、自分の強みも欠点もすべて受け容れていく、ということで、何も努力をしないということではありません。受け容れる、そのこと自体が力につながるのです。

 

多動性傾向がある、という事実を踏まえた上で、自分の得意な方向へのエネルギー・シフトを考える。私の場合は、そんなチャンスをもらったような気がします。

 

ちなみに多動性はクリエイターにとっては「武器」だ、という考え方もあるそうですよ。

 

創作活動、創造力において、私の多動性傾向がどのような力を産み出すか、訪問してくださる方も温かく見守ってくださるのではないでしょうか。

 

この考え方のヒントになったのは、博物学者、生物学者、民俗学者であり日本初のエコロジストともされている天才・南方熊楠のエピソードです。彼は自身の脳に欠陥があるらしいことを認識していて、その上でさまざまな論文を残しました。彼の書いたものは、前文との脈略がなかったり、テーマ性が統一されていないものも多かったそうです。

 

彼の欠陥は欠点だったのでしょうか。それとも天から授かった宝なのでしょうか。

 

人として生きるのか、学者として生きるのか、ひかりとして生きるのか。

 

実のところ南方熊楠に傾注しているわけでもなく、その人となりを深く知っているわけでもありません。まして大天才の彼と肩を並べようなどというつもりもありません。

 

ただ、なんとなくシンパシーを感じるタイミングが今だったので、参考にさせてもらおうかな、と感じただけ。

 

最大のポイントはお互い大の猫好き、ということなのかもしれません。猫は確かに思いのままに生きていて、カテゴライズ、やテーマ分けという概念とは無縁ですからね。100%あるがまま。

 

ふと調べてみたら、この場合は「シンパシー」ではなく「エンパシー」がふさわしいのかもしれません。

 

なるほど。

 

本当のこと言っちゃうと、どっちでもいいかな、私的には。

 

なんとくなくハートに響いた、ただそれだけなので。

 

はい、おわかりいただけるかもしれません。

 

当エッセイを書き始めた時とすでに頭は別のところに向いている。

 

この頭がどうやら、何かとつながっているようなのです。そのつながりを無理やりコントロールする必要はないかな、と。

 

これが「ひかりのしずく第1章」( コンテンツ数656 + 最後のあいさつ 1 )  によってもたらされた私へのプレゼントです。

 

第2章では、どんなGiftが届くんでしょうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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