心理学はむずかしい。
さまざまな情報がさまざまな視点で説かれていて、「これが正解」というものがない、というのが心理学の本質なのかもしれません。これは心理学に限らず、どんなジャンルでも言えることなのかもしれませんね。
「聖人、善人、クソくらえ !」
今朝、はじめて私の中から出てきた概念です。
何だろう、何が言いたいんだろう、と自己分析をすると、今までの私は「聖人チック」「善人チック」に生きることをひたすらがんばってきたのではないか、と。
元々日本には「良い子」思想というものがあって、例えば「世のため人のためになるように、わがままや自分中心の考え方は我慢しなさい」といったような、感情抑圧の仕組みともとれる、そんな世界観があるのではないでしょうか。日本人が欧米人に比べてあまり感情をあらわにしないのも、その一方でうつ病などが多いのも、そのためではないかとしている説などもありますね。
そんな中で私自身、小さい時から「できるだけ良い人でいよう、良い人でありたい」と思い続けてきたのかもしれません。それがどうにも私には窮屈だった、ということなのでしょう。
これを心理学的に読み解くとどういうことなのか、少し調べてみました。
引っ掛かってきたのは、「自我」「自己」という言葉です。その中で、どうやら自我の確立が、今、なされた、ということのようでした。
自我の確立って、今頃 ? と思ったのですが、実は案外自我は確立できていない場合が多いらしいのです。
自我はもちろん悪いものではないし、自我が確立されていなければ、自己も確立できない。本来、成長過程で自然に自我が確立されているはずなのですが、育つ環境の中で、うまく確立できないケースがある。
なんとなくそういうことのようです。
自我、という言葉にたどり着いた瞬間、
人間なんて、歪みがあるからおもしろいんじゃないの ?
歪みがあるから、創造性がかきたてられるんじゃないの ?
まぁ、その手のことが次から次に浮かんできました。
枠にはまった人間性なんて、つまらない、と。私の場合は、です、心底そう感じました。
ちょっと調べてみると、偉大な芸術家とか学者とか実業家なども含めて後世に名を残している人って「変人」「奇人」の類が多いんです。
「この人は素晴らしくバランスの取れた、中庸感覚の人だ」なんて、そんな人は出てこない。
聖人、という意味であげると、もしかしたらイエス・キリストとか釈迦あたりがそうなのかもしれません。彼らも100%愛とか、完全中庸、完全空ということもないらしく、私たちほどではないけれど、そこそこアンバランスなところもあって、それがとても人間味あふれるところであって。
というのは、私の個人的感覚です。宗教的云々を抜いた部分での、浅い捉え方です。
とすると、人間は「まん丸」なんて存在はなくて、みんな、少しばかり、あるいはたくさんの歪みを自分の個性として存分に味わっているんじゃないかな、と。そのための命なのではないでしょうか。
私自身もその一人。
歪みまくって、ボコボコで、ものすごいアンバランスで。
だからおもしろい。
最初に心理学のお話をしましたが、心理学者だってそれぞれ。彼らが唱えた内容だってそれぞれです。
それを、誰が正しいとか、誰が間違っている、とかそんな視点で語ること自体、土台無理なこと。
〇〇の心理学理論のここはピンとくるけど、ここは今一つ。
××の理論は、ここは秀逸。
そんな内容を自分自身のフィルターを通して、アレンジてして活用することの不具合が今の私には思いつきません。
むしろ、一つの公式に当てはめて、「こういうタイプはこうで、こうだから、こうしなければ」と言った、分析のセオリーといったものは、なんだかおもしろみに欠けるな、と。
深層心理学のジャンルでは私はユング理論が一番シックリきます。それでも100%理解できているわけでもない。また、他の理論、例えばアドラー理論なども部分的に「そうそう」と共感することもあります。まして、なんでもかんでも心理学的に視ていくことがいいのか、と言えば、それも違う。
何が言いたいか、というと、こういう考え方は「自我の確立」に結びついているのではないかしら、ということです。
世間的にはこうだから。
人がそういうから。
昔からそう言われているから。
ものの本にそう書かれているから。
そこに埋没していたのが、「聖人チック」「善人チック」な仮の、私の姿だったような気がします。
ちなみに「自我の確立」で調べたら、子どもの時に自我が確立するとか、20歳前後で確立するとか、そういう情報も目にとまりました。
あくまでも参考例なんでしょうね、それらの一つ一つが。
私は、何歳で自我の確立を認識した、というような主観で書かれたものではなく、何かの参考書があって、「それによれば」という但し書きが抜けているような、そんな印象をもちました。
もちろん、それが悪いということではありません。
私の場合は、参考書はあくまで参考程度。そこから自分自身が何を感じ、何を体験し、何に気づき。そんな捉え方をしているので、私の世界の中では、自我の確立は、もしかしたら、一生しない、できない場合もあるのではないかと感じたくらいです。それも個性の一つなのではないかと。言葉をかえると、そういう人生のストーリーだってあるということです。
個々、というのはそういうことなのかもしれませんから。
「聖人、善人、クソくらえ !」
なんの前触れもなく、自分の中から湧き出てきてくれた概念。
突然出てくれるところがなんとも嬉しい。
まだまだ、ですね、私たちの人生は。
年齢で人生の〇〇期と切って捉える考え方もあるようです。統計学かなんかでしょうか。
みんながみんな同じプロセスをたどるということはないでしょう。みんな、一つ一つ異なる命。使命だって課題だって異なるはずですもの。目安はあくまでも目安。もしかしたら目安さえ必要ないという場合もあるかもしれませんよね。
私は、そう感じます。これが自我 ?
もしこれが自我の確立だったとしたら、この先、また何か違う概念が突然浮かんできそうな気がします。
未熟だからこそいろいろな発見がある。
いつまで経っても完熟はできなさそう、私の場合。いつも発展途上。それが死の瞬間まで続きそうな予感。