書きたいことを書く。
描きたいことを描く。
今までも何度かこのお話をしてきました。
上手に書こう、描こうとか、誰かに認めてもらうために書こう、描こうとか、ではなく、ただ想いのままに書く、描く。
南方熊楠。この人物の情報にたどり着いたのは、今回が二回目。
最初は確か、日本初のエコロジスト、といった側面でたどり着きました。正直その時はそれほどピンとは来なかったのですが、今回、二度目のご縁、その人物像の片鱗をかいまみて、ハートに響きまくり。
wikipediaにあった内容の個人的解釈をすると、彼の書く論文は、きちんとした起承転結がなく、非常にわかりにくい。書いているテーマが飛び飛びになったり、突然人の悪口が出てきたり、時には猥談が出てきたりするらしいのです。
ところが、宗教学者の中沢新一によると、熊楠の文体構造は「マンダラ的である」と。
マンダラとは、私個人の解釈によると宗教的宇宙観のようなもの。
これを心理学と結びつけたのが、ユングです。ユングは、自身のメンタリティーがバランスを崩した時に絵を描いたのですが、それが実はマンダラと非常に酷似していたため、その後治療にとりいれてはどうかと、回復期のクライアントに絵を描いてもらったそうです。すると、彼らもマンダラに近い絵を描くことがわかり、そこから、主体性をうしなっていたクライアントの「個性」を蘇らせるという道を探り出したそうです。
このあたりの解釈はバクっとしていますので、興味のある場合は、ご自身で調べられた方が良いかもしれませんね。
つまり、マンダラを描くことで「自己統合」のプロセスを見出したのがユングです。
そのユング理論と、熊楠の文体構造の「マンダラ的」が私の中で重なりました。
熊楠は、頭の中で理論がアチコチに飛ぶタイプ。それを文章を書くことで自己表現すると同時に自己整理していたのではないでしょうか。
ユングのマンダラは、こころを癒す治療ツールとしてスタートしました。ちなみに宗教のマンダラとユングの捉えているマンダラは視ているところが異なります。
そこに込められた彼の想いは、アートを描く人の「自己肯定」だったと言います。
それを文章で実現していたのが熊楠だったのではないでしょうか。
そう、私たちは書くこと、描くことで、自己肯定がすすめられる。誰一人例外なく。
たとえ、マンダラというものを理解していなくても。
当エッセイも書きたいことを書くために、はじめさせられたものだと感じます。
誰かに何かを伝えたい。
何か、テーマ性を以て作品をしたためたい。
もちろんその側面もあるのでしょうけど、私は自分を肯定していくために、当シリーズを続けているのだな、と。
ユング理論は、個人的にはしっくりくるものなのですが、実のところ彼のマンダラ理論は今まで理解ができませんでした。
熊楠の論文はまだ読んでいませんが、ちょっと調べただけで、かなり魅力的な、豪快かつ繊細な人だな、と感じました。
その二人の点と点がつながって、私の中に新たな発見が生まれました。
これもまた、一つの自己統合なのかもしれませんね。
書きたいから、書く。書きたいことを、書く。
描く、もまったく同様です。
むずかしいメソッドを取り入れなくても、私たちは自分に優しくなれる。
自己肯定は、自分が自分にしてあげられる最高の癒やし。
自分にしかできません、だから、自分でしてあげるのです。自分の命を全身で包み込むように。