他者を排除しようとするこころ。
この人と私は違う、と線を引く。
この人はこうだけど、私はそうではない、と。
他者との間に境界線を引くのは当然のこと。
あなたのテリトリーはここまでね。私のテリトリーはここまで。と。
ところが排除というのは、それとは性質が異なります。
あなたは私と違うから、私はあなたの存在を認めない、ということだから。
あなたの存在を認めない、という人は、実は自分の存在を認めていません。
自分の存在を認めていないから、他者の存在も認められない。
自分の存在をよくも悪くも受け容れている人は、他者の存在を認められる。
境界線を引くことはあっても、あなたは無用の存在と排除はしない。
あなたの中にどれだけ「排除」の対象がありますか。
「排除」の対象が多ければ多いほど、「自己排除」という切り札を活用しまくっていることになります。
外にどうしても受け入れがたい存在がある。
なぜ、受け容れがたいのか。
それはその人が見せているある側面が自分の中の側面と同じだから。
だから、絶対認められない、絶対受け容れられない、と排除の力をフル稼働するのです。
絶対受け容れられない、と強く感じ続けることは、自分自身を排除していることにつながります。
私は、今、あの人のことを絶対に受け容れられない。そんな自分を受け容れます。
たったそれだけのことで、私たちの意識もこころも大きく変わってきます。
自己排除の切り札を使い続けている人は、結果的に自分を傷つけ、どんどん自分自身とのかい離を進めてしまいます。そうして、いつしかパニックを起こし、時に人を傷つけたり、自分自身をトコトン傷つけたり。
私にもそんな時がありました。もしかしたら、このことに気づくその瞬間までそうだったのかもしれません。
自己排除という概念があるので、自己受容という概念を認識することができます。
自己排除そのものに「善悪」があるのではなく、それを「いけないもの」と判断しすぎたこころが、自己排除の暴走を許してしまうのです。
自分のこころに向き合う。
一見、「良くないこころ」にも、きちんと意味がある、意義がある、価値がある。
そろそろ真剣に自分自身に向き合っていきませんか。
この世の中には、むだなものなど何一つないのですから。
一つ一つ受け容れていく、自分の中に、自分自身のこととして。