私たちは、「在る」だけで存在意義のある存在です。
おわかりになりますか、この表現。
そう、存在する、という状態であるだけで存在意義がある、ということです。
例えばどんなにイヤな自分でも、どんなに恰好悪い自分でも、どんなにズルい自分でも、どんなに姑息な自分でも、その存在は必要だから、この地球に「在る」んです。
善悪判断での「よし」「あし」だけではありません。
ただ「在る」ということに意味があります。
人の役にたっているとか、世のためになっている、とか、一般に言われる善行だけが人の存在意義ではありません。
どう考えても、私は人の役に立っていない。どうしようもない役立たずだ。
たとえ、そう感じたとしてもいいんです、それはその人の主観にしかすぎません。外から視たら、「なんて素敵な人なんだろう。あの人を視ているとこころが落ち着くわ」、そう感じる場合もあるのですから。逆に、「ああはなりたくないわ」というメッセージを誰かに届けたとしても、それは光のメッセージです。愛のメッセージです。その人はちゃんと役に立っている。その人がいなければ、「ああはなりたくないわ」という、他者の自己反省も生まれません。
ただ自分の主観。それだけを絶対視する必要は何もなくて。
私たちの身体の細胞を思い浮かべてみましょうか。
すべて必要な細胞たち。どれ一つとったって、いらない細胞なんてありません。その細胞のバランスが崩れた時、私たちの心身に病気やケガなどの症状があらわれたり、こころのアンバランスが生まれたり。
それらはすべて細胞が「在る」からこそ起こること。それらのサインが出た時は、「調整の時だよ」と告げられているだけ。その状態にも良い悪いはありません。
すべてを「善悪」で判断しようとするから、「私の存在意義は ?」「私の使命は ?」などと外に答えを求め始めのではないでしょうか。
そもそも必要なければ、この世に存在しているわけはなく、全体の一つとして一部として、あなたは必要なんだよ、という言葉の代わりにこの肉体と命を授かっているのではないでしょうか。
ただ在る状態。
ただ自分を認識している状態。
ただ自分を受け容れている状態。
それが = 存在意義だと私は感じています。
そこに判断は要らない、ただ在るだけ。
自分をただ在る存在と認められれば、他者に対しても、「あの人たち、あの人もただ在る存在」と認められるようになります。
私たちのベースはもともとそこなのです。
けれど忘れてしまった。
だから思い出していきませんか、少しずつでも。
自分自身とつながって。
存在意義のない存在なんてこの世にありません、何一つ。
それなのに、勝手に不要品、役立たずというレッテルを貼っているのは、私たちのエゴです。
レッテルもエゴも悪いだけのものではありません。
真実に近づくための、踏み石の一つです。
ただあまりにもそれらが肥大化したり増大したりした場合は、深呼吸をして、できるだけ真ん中を感じ取れる自分でいませんか。
自分自身のために。みんなのために。大いなる一つのために。