大切なパートナーが突然、旅立つ。
私自身も体験したことですが、本当につらいものです。
そのつらさの真っただ中にある時は、なかなか真意をはかりきれません。
もっとできることがあったのではないか。
自分をきらいになってしまったのではないか。
苦しんで苦しんで苦しみぬいて旅立ったのではないか。
などなど、どうしても人間目線でモノをとらえてしまいます。
ここ数日のうちに、突然死のわんこのお話を何件も耳にしています。
例えば、ラブちゃん。血液のガンと言われ、手術をするその日の朝に旅立ってしまった。
ダックスちゃん。ヘルニアか何かの病気、致死率100%のものなんだとか。発症して4日目に旅立ってしまった。
差しさわりがないと思えるところではそのくらいなのですが、実際多くのケースが耳に入ってきています。
当然、飼い主さんはガックリ来ています。ガックリ、なんてモノではなく、大変な哀しみと痛みを感じて、ようやく人に話せるようになった段階だと言います。それでもまだ罪悪感を感じている。自分に落ち度があったのではないかと。そういう段階は、それでも話せる、ということがこころの薬になります。
周りにそんな友人がいたら、ただ話を聴いてあげる。気の利いたことなんて言えなくてもいいんです。痛みに寄り添う。静かに。無理やり励まさなくてもいい。ぬくもりは伝わるから。
私は、なぜかお散歩時に、病気になったとか、亡くなったという、ペット君の話を耳にすることが少なくありません。お役目なんでしょうか。
ふと感じたのです。
動物君は、自分の旅立ちを認識している、ということを。
わが愛猫・海・かいは、毎日とても健やかに過ごしていて、そんな中、突然の発作、そしてその翌々日に旅立ち、少しだけの猶予はくれたものの、ほぼ突然死でした。
本当に元気に過ごしていたので、私自身、何が起きたのか、わからない状態でした。
海・かいに発作という症状があらわれた時に、友人がヒーリング・エネルギーを送ってくれました。
友人によると、ものすごく強い力でヒーリングをブロックしたとのこと。
「あ、大丈夫なんだ」
そう感じたと言います、長年の勘で。ところがその翌日、海・かいは旅立ちます。最期の最期の瞬間まで、自分が生きているその姿を私にみせながら。
海・かいは、旅立つために発作を起こした。それをヒーリングなんかで邪魔されては困る。
そういう強い意志があったと、後から友人と話してそう感じました。
それくらい強い力でのブロックだったそうです。とても発作が起きている猫のそれではなかったと。
こんな話は信じられない。脚色でしょ。妄想でしょ。そう感じる人もいるでしょう。
けれどあのプロセスを肌で感じた私は、海・かいは覚悟の旅立ちをしたとしか捉えることができません。
そしておそらく、動物君はみんなそうなのかもしれないな、と。
特に突然死の場合、ほぼまちがいなく覚悟の旅立ち、だと感じざるを得ないのです。
動物は最期まで生きることをあきらめない、とある獣医さんから聴いたことがあります。
同時に、旅立ちの時だ、と感じた時は、延命をさせないように、彼ら自身が自分の意思で旅立ちのストーリーを展開するのかもしれません。
それは、その時がきたから。
ただそれだけ。
もちろん人間側からすれば、そんなことは到底理解できません。もっともっとそばにいて欲しい、そばにいたいと心底願うものです。
動物君は、その所属が、常に大いなる源だと認識できているのではないでしょうか。自分の命だけれど同時に自分だけの命ではないというように。
私たちにとっては、哀しくて、やりきれないほど辛いお別れ。
動物君にとっては、次なる使命のために。自分自身の使命と同時に飼い主さんの新しい使命、そこまでを含んでの旅だちという理解をしているのかもしれませんね。
私の義妹の嫁いだ家には、シニアのシーズーちゃんがいました。それはそれはかわいいコで、みんなで大切にしていたそうです。
ところが、義妹の妊娠がわかったら、突然姿をくらました。みんなで必死になって探したところ、家から離れた空き家で、冷たくなったそのコが見つかった。
おそらく、義妹の妊娠を知って、新たな命の誕生のために、自分が旅立つことを選んだのではないかと、そのコを一番かわいがっていたお姑さんは、そう感じているそうです。
あり得ない話だと思いますか。美化しすぎていると。
私自身は、そのお姑さんの感じ方を信じます。そのシーズーちゃんと一番通じ合っていたお姑さんが、そう感じた、というのなら、おそらくそうなのでしょう。
動物君が新たな命のために、自分の旅立ちを優先する、という話は少なくありません。
というか、はじめから大きなストーリーの中にあるので、その時、急に、意思的になったということではなく、自然の流れの中で、結果的に旅立ちとなった。それでそこまでの自分の使命は終了した、させた、ということなのかもしれません。
最近は家猫ちゃんが多いので、最期は病院か家で、ということが多いのですが、少し前には、猫さんは旅立ちの場所を求めて、その瞬間の数日前、そっと姿をくらませる、と言われていましたね。
私の実家の猫はまさにそのタイプでした。いなくなってしばらくして、その姿を自宅の屋根の上で見つけました。
犬猫、あるいはたいていのペットが室内生活をする現代。その距離が縮まって、私たちは人間と暮らしているような錯覚に陥ることもしばしばです。
彼らは動物、野生の血が今でも残っています。私たちより強く。幸いわが家は、今のところ、愛犬・華実も愛猫・海・うみも元気です。
が約束は約束。彼らは必ずあちらに還っていきます。
その時に、海・かいの旅だち時のように、ジタバタしすぎず、なんとか、彼らの覚悟を受け容れられたら、とは思うのですが、実際そうなった時には、またジタバタしてしまうんでしょうね。
それでも、彼らが覚悟の上、という認識を少しでも感じることができたら、海・かいの旅立ちも無駄ではなかったと、やっと自分なりのこころの整理がつきそうです。
突然死だから。他のコより短命だったから、という理由で、そのコの命を嘆かないで。
そのことを飼い主さんにお伝えできたら。
命の長さで、その命の重みが決まるわけではありません。命の使命の重さが決まるわけでもない。
どんな命も、同じだけ大切な役割を果たしてくれたんです。
愛猫・海・かいの突然死を体験したからこそ、わかりました。
ちなみに私は、両親も兄も突然死です。どれだけの痛みを重ねてきたことか。
けれど、その痛みは、きっと私のこころをしなやかにしてくれるためのものだったんでしょうね。
痛みにさえも意味はあるのでしょう。なかなかそうは思えないものですが。
たまたま動物君の旅立ちを耳にする機会が増えたので、今の私の使命は何だろう、とこのエッセイを記すことにしました。