呼吸に意識を向け始めて一週間。
呼吸が変わりました。
私は、ヨーガの要素を部分的に生活に取り入れているため、これまでも呼吸はそれなりに意識的に行ってきました。
ところが呼吸が下手なんです。
吐いて吸う。たったこれだけのことなのにうまくできない。
ここ半年くらいは、深呼吸をしようとすると鼻づまりのようになって息ができない。
意識的なものだな、とわかっても改善しない。
そこで呼吸法を見直す本を買いました。
内容はストンと腑に落ちることばかり。読んで満足していただけではつまらない。ということで、それなりに呼吸に意識を向けながらの時間を創りました。
私には毎朝、瞑想の習慣があります。瞑想をする、のではなく、瞑想状態に入る。椅子に座って行います。けれど実際は意識が勝って瞑想を「する」状態になってしまいます。この時は呼吸には集中できません。時には口呼吸になったりもします。それでも頭はスッキリすることも多く、イレギュラーな瞑想状態を楽しんできました。
ここ数日は、とにかく呼吸優先。瞑想状態は後回し、というスタンスに切り替えました。今の私にとっては呼吸に寄り添うことが大事だと感じたからです。
さて、きょうの深呼吸。すでに鼻づまりは治り、鼻による深呼吸ができるようになっています。
第一段階の難関は、簡単にクリアすることができました。今までのあの鼻づまりは何だったの ? というくらい。
しばらく深呼吸をしていたら、なんと、頭が空っぽになってくれています。「無」の状態。仏教や禅の世界では「空」と言われているみたいですね。何もない「無」ではなく、何かとつながった、すべて在る「無」。むずかしい理屈はこの際おいといて。
その後、息が自然に流れ始めました。呼吸という行為ではなく、自然に息が循環し始めた。
ん ? もしかして、これを「瞑想状態」というのでは。
何にしても、ただ気持ちいいんです。息が生きていて、勝手に移動してくれている感覚。
そう、「瞑想状態に入ろう」という意識を取り去り、ただ深呼吸を意識的に行ったら瞑想状態がどこからかやってきてくれた。
これが、呼吸に意識を寄せることの意味だったんでしょうか。
瞑想状態に入りたいと強く願いすぎて、瞑想状態に入れない状態を招いてしまっていたのかもしれませんね。
瞑想云々より、私には呼吸の方が大切なことなのかもしれません。
正しく言うのなら「息」が大事なのかも。
「息」は「生きる」と同意語だと以前お話しました。
生きるために息はどうしても必要なもの。
逆に言うと、生きていくために誰でも息と仲良くできるように創られているのに、何かの意識がそれを遮っていて、呼吸が上手にできない人が増えてしまっているということなのかもしれません。
現代人のほとんどは呼吸が浅い状態。生きづらさが生じて当然の状態です。この真実を唱える専門家は少なくありません。
私の場合は、以前パニック障害になったことがあって、今は完治しているのですが、どうもその時の記憶が残っているようで、息を一生懸命吸いすぎてしまうんです。過呼吸の記憶をくり返している。
その真意は、と調べてみたら、「未知に対する恐れから、自分自身を信頼できていない」という私像が浮かびあがってきました。
鼻づまりに関しては、自分自身に対して「鼻もちならない」と感じていた様子。
これらの潜在意識が、私の呼吸、正しくは息を邪魔していたということになりそう。
私は生きることにすごく臆病になっていたんですね。息に対しても信頼感情を抱けなかった。
息は本来特別なものではなく、すべての人に備わった叡智です。その事実が認識できなくて、「息が足りない、呼吸が苦しい」とあえぎ続けてきたのかもしれません。
この手の潜在意識は、たいていの場合、過去生の記憶だったりすることもあるようです。
過去生があるとかないとか、その過去生はどんなものだったのか、その手のことに関する関心と理解は人それぞれ。
私は、過去というのは、過去生までを含んでいっているんだろうな、ぐらいにしか捉えていません。少なくとも今ではない、かつての記憶。その記憶が浮かびあがってきたら、ただ感じて自分自身の統合を進める。
個人的に、ですが、私は「水没」による呼吸困難、さらには溺死の記憶があるんじゃないかと感じています。無意識の中に。
今回はそれにつながるために、あの本があらわれてくれたような気がします。
呼吸法について書かれた本はたくさんあります。
自分がシックリくる感じのものを選ぶのが一番。
呼吸法と構えすぎないで息と仲良くしたいな、くらいの感覚で選んだ方がいいかもしれませんよ。
構えすぎは「エゴ」が作用して、真逆の効果を招いてしまうこともあるみたいですから。
私の呼吸と瞑想状態の関係のように。
できるだけフラットな感覚、がポイントなのかもしれません。