餅は餅屋

「餅は餅屋」

 

数日前から、この言葉が浮かんでいます。

 

私たちには天賦の才能、というものがあるので、みんながそれぞれ、その才能を生かして人生を楽しみなさい、という意味でしょうか。

 

私の人生はなんなのか、と考えた時に、世の中を良くしようとか変えようとか、そんなことを思うこともあるけれど、おそらくそれは私のテリトリーではないと、最近、そんな風にも感じ始めています。

 

仏教の概念に小乗と大乗という考え方があるそうです。門外漢の私が個人的に解釈した内容は、小乗は自分自身のことを考え、大乗は多くの人を救う、その方法論の実践では、というもの。

 

小乗は、小さな乗り物、大乗は大きな乗り物。

 

数か月前でしたか、ある覚者の言葉に、「小乗が先」という主旨のものがあって、ストンと腑に落ちたことを覚えています。

 

人を救う前に、自分自身を救っていないと、私みたいな人間は共倒れを招きかねない。

 

良くも悪くも、これが今の私のキャパシティなんじゃないかと。

 

人のために、誰かのために。ずっとそんなことを考え、求められ、わからないなりにそれを追求してきたような気がします。

 

けれど、そもそも私はそんなに大きくはない。

 

見た目の問題ではなく。

 

とすると、私は私自身を味わい、楽しむために、この生を授かったのではないかと感じられるんですよね。

 

もちろん、人に喜んでもらえること。それを味わうことは、楽しいことです。

 

その前に自分はその状況を心から楽しんでいるのか。それがないと、何かのバランスが崩れてしまいそう。

 

器用な人は、これこそ自分の道と、複数ジャンルでの天賦の才能を存分に活用しているのかもしれません。

 

私は不器用にタイプなので、まず、自分を好きになる、とか自分を愛する、とか、自分を受け容れる、とか、その手のことが大前提になるような気がします。

 

これを、自分の可能性を狭める、と取るか、自分自身に寄り添う、と取るか、捉え方は人それぞれ。

 

私の場合は、自分自身に寄り添う、淋しがり屋な自分に、甘えん坊の自分に、敏感な自分に。それができて、はじめて心から人に寄り添えることができるようになるのかもしれませんから。

 

みんながみんな自分のことだけ考えていたら、大変なことになる、という考え方もありますね。

 

私は、です、人にそれを求めるのではなく、私はそうしたい、そうする、ということです。

 

大風呂敷を拡げて、できもしないことをさもできるかのようにふるまっても、自分のハートは歓んでくれません。どこかで、何かが爆発してしまう。

 

そんな、小爆発を何回も経験してきたので、そろそろ自分の真ん中に戻って、等身大、自然体の自分と徹底的に向き合おう、と、それが今の私の想い。

 

平成って、世の中全体が背伸びをしていたんじゃないかと感じるんです。

 

私の知る限り、スピリチュアルとか自己啓発とか、ものすごい勢いで、ビジネス・マーケットが拡大しました。

 

そのままそれが拡大するのか、シェイプされて洗練されていくのか。

 

その視方も人それぞれでしょう。

 

私自身は、妙に「等身大」「自然体」というキーワードがハートに響くので、両手を広げすぎなくても、あなたのハートの扉は開いているから安心して、というメッセージが届いているのかな、と感じたりして。

 

自分のスケールを知ることは、怖くもあり、けれどとことん楽しいことなのかもしれませんよね。

 

餅は餅屋。

 

私のつける、最高級の餅は何なのか探りつつ、とことん私自身と向き合う。

 

そんな人生の歓びをじっくりかみしめるっていうのもいいかもしれないな。

 

 

 

 

 

 

※ 追記

 

かみしめる、と打とうと思ったらいきなり「神占める」の文字が。

 

楽しい。

 

このメッセージを解読する。

 

たとえ妄想の世界だとしても楽しいんだから、それでいい、んですよね。

 

当エッセイ、執筆終了時間「1111」。

 

 

 

 

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