梅雨の走りを思わせる雨ですね。
梅雨は大の苦手。
だったのですが、ここ数年そうでもなくなりました。私の中のエネルギーも変わっている、ということなのかもしれません。
きょう、2019/05/20には、ほぼ日常が戻ってきました。お買い物も行けました。階段の上り下りもできました。靴もソックスも普通にはけました。カウンセリング・セッションも滞りなく。
そう、普通の生活が戻りつつあります。
ぎっくり腰になって、愛犬、愛猫はどんな風かというと。
まず愛犬・華実。華実は直球です。私が痛みに耐えている間、ずっと、ベッドで私の横にいます。
「華実君、重いからあっち行って」
絶対に動きません。華実なりのヒーリングなのです。夜、寝る時、華実はいびきをかく時とそうでない時があります。観察していてわかりました。私の痛みがひどい時は、華実のいびきもひどい。おそらく、私の痛みを共有してくれている。ある意味、「わかち合い」の精神なのかもしれません。
「ママ、痛かったら僕が半分引き受けるからね」
おじいちゃんになっても華実のおつむはピュアです。大きな、つぶらな瞳にいつもより憂いがあって、「ママ、大丈夫だよ」と言いながらも、「大丈夫かな」と、少しだけ心配も加わって。
きょうは安心したのか、今、一人でぐっすり眠っています。いびきはゼロ。もう、私の痛みを引き受ける必要はなくなった、ということなのでしょう。
一方の海・うみ。
わが家のヒーリング担当の海・うみのことですから、そばにいてヒーリングしてくれるのかな、と密かに期待していました。
いゃあ、猫さんはわかりません。本当に「読めない」。
最初の二日は、私のベッドの頭の横に。華実は足元担当です。このあたりに、二人の得意分野があらわれます。
四日目頃でしたか、ボールを持ってきて「遊ぼうニャ」。海・うみにしてはしつこくアプローチ。
「海ちゃん、無理だよ、治ったら一緒に遊んでね」
私の足元で一人ボールを抱きかかえ、ケリケリしています。
これが海・うみのヒーリング。
海・うみは、私にメッセージを伝えることで癒しを与えてくれたのです。
「ママ、もっと遊ばなきゃ。なんでも遊び心が大切だよ。ママは真剣ぶって遊び心が足りない。なんでも楽しく遊び心でいれば、もっともっと楽ちん人生が歩めるのよ」
さすが遊びの天才、にゃんこサマ。そうなのですよね、私には人生を味わうこころの余裕がなくて、いつもパツパツで突っ走っていた。
前エッセイでお話した、あちら在住愛猫・海・かいの「joyの波動で生きろ」を海・うみが受け継いでくれているのです。
華実はどこまでも純心無垢。まるで小さな子どものよう。
海・うみは達観しています、遊ばなきゃ人生、もったいないよ、って。
ありがたいことに、私の不具合エネルギーにはビクともせず、二人とも、あいも変わらず絶好調です。彼らが元気でいてくれることは、私のこころの大きな支えにもなりました。
「自分のことだけ考えて」
華実と海・うみの親心でしょうか。
海・かいがいたら「僕ちんが速攻で治してあげるよ」とでも言いそうですが、今の私には華実と海・うみのパワーと波動がちょうど良いのです。
彼らと共に生きる歓び。
その時の自分にピッタリのパートナーがやってきてくれるな、と改めてご縁の意味をかみしめています。
「ぎっくり腰」はまだ完治ではありませんが、気持ち的には100%以上回復した気分なので、「ぎっくり腰がくれたプレゼント」シリーズはこれで終了にします。
一つ、大切なこと。
私は当シリーズを執筆しはじめて、一気に痛みが薄らいできました。
病気、ケガの症状にフォーカスするのではなく、自分のしたいこと、得意なこと、好きなことにフォーカスすると、自然に免疫力が高まってくれて、自然治癒力も働きやすくなるんです。
主人の知人には、末期のガンを「ゴルフ三昧」で克服してしまった人がいます。
病気に抗う時、人はストレスホルモンに牛耳られ、免疫力が下がってしまいます。
自分の好きなこと、やりたいことに集中すると、人は幸せホルモン、快感ホルモンに支えられ、結果、自然治癒力が働きやすくなります。
これを体験させてもらえたこと。
何よりものプレゼントです。
もちろん、頭が優位になって、「どうしよう。どうしたらいいんだろう」「こうやったらよくなるかな」というように症状にフォーカスしてしまうのは、人間なら当たり前のこと。
その時に、少しだけ気持ちを落ち着かせて、「あ、今、頭で考えている」、と受け容れ、深呼吸をして、「今、何がしたいかな」と自分自身に聞いてみる、そんな習慣を身につけられると、病気やケガとの関係が少しずつ変わってきます。
そもそも、病気もケガも敵ではなく、味方だということ。
体調が悪くなった時にはなかなかそうは思えませんから、体調の良い時にそういう情報をインプットしておくのはいかがでしょうか。
私はここ半年くらいに読んだ本の大半がその手の考え方だったので、今回、アタフタせずに済みました。
事前に、不安情報ではなく安心情報を取り入れておく。一つの予防ケアであり、お薬であり、かもしれませんね。もちろん不安がいけないという意味ではありません。不安があるから安心がわかるのですから。
意識が人生を創ります。
健康や病気を創り出すのも、すべて私たち自身の意識です。
この受け入れがたい事実をどうやって腑に落とすか。
人生はなかなか奥が深くて、一筋縄では行かないもの。
だからこそ、味わい深く、また歓びも深まるものなのかもしれません。
ぎっくり腰前の私と今。まるで別人のようにエネルギーが変わりました。
なるほど。
病気やケガって、ある意味、宗教的自己犠牲がモチーフなのかもしれませんね。
たとえ自分が一見「悪者」になっても、他者の幸せを応援する。何の見返りも求めずに。
彼ら、それらもまた、偏在する「愛」の一部だという証、ですね。