三日前からぎっくり腰です。
症状が出たのは二日前。
そのキッカケは主人のゴルフバッグを抱えたこと。
その時には痛みはなく、なんでもなかったのですが、翌朝起きたら起き上がれない。ビックリです。
気持ちに余裕が出たので、エッセイを書こうと。とまぁ、こんな具合なので、重症ではありません。ただし、結構な不具合感を感じながらの毎日です。
今回のぎっくり腰、さまざまなプレゼントを運んできてくれました。負け惜しみではないのですよ、さらに綺麗ごとでもなんでもないのです。かなり素直に、お腹の真ん中から、いい感じにさまざまな歓びが浮かんできています。
まず。
私は、ゴルフをはじめとするスポーツや習い事を「お金持ちの道楽」として否定していたらしいことがわかりました。私の潜在意識です。顕在意識ではそんなことは思ったこともありません。
スポーツや習い事 = お金持ちの道楽、暇つぶし = いけないこと = 罪悪感
の図式が私の中にあったらしいのです。
お金持ち、と道楽、二重での否定。相当強い抑圧ですよね。
これはどこからきているのだろうと思って、ピンときたのは「貧乏暇なし」の思考です。この言葉は小さい時からわが家ではまったくあたりまえのこととして使われていました。
父が職人だったため、わが家では仕事を休むと収入がなくなり、結果いつも馬車馬のように働かなくてはいけない生活をしていました。
まさしくこの言葉通りの生活です。
その刷り込みは、父独自のものではないでしょう。時代もあるのか、この国の特性もあるのか、さらには過去からずっと語り続けられてきたものなのかもしれません。
ここ最近になって、私はこの意識を何回も手放す、ということを続けていたのですが、まだ残っていたのですね。
私の「芯」になっていたのかもしれません。
ゴルフバッグを抱えなければ、おそらくこのタイミングでぎっくり腰にはならなかったでしょう。
ぎっくり腰にならなかったら、こんな発想も生まれませんでした。
確かに肉体は痛い。
でもこころは、軽やかになってくれています。
痛みのピークが過ぎたらしいこともあってのことでしょうけど。
「貧乏暇なし」とか「清貧」とか、もういい加減にしてください、というくらい向き合ってきたはずの意識エネルギー。
ここでまた一つのつながりがわかってしまったのです。
私は、イエス・キリストの教えがかなりのウェイトで私の中にあることに気づきました。キリスト教徒ではないのに、です。
お金持ち、道楽。おそらくどちらもイエス・キリストが否定したもののはず。なぜ、この意識につながったのか、なんとなく「あれだな」ということがわかりました。
深層心理学でいうところの「集合意識」の可能性もあるのかもしれません。
不思議ですね、こうやって執筆していると、筋肉の痛みがまるで感じられません。
なるほど。
痛みにフォーカスしていると、痛みとの自己同一化が進み、さらに痛みがひどくなるように感じられるのです。
無理は禁物ですが、「書く」ということは、私にとって、有効なお薬の一つなのかもしれません。
こういう時に限って、「カウンセリング」のご予約は来週からになっています。
その間、しっかり休め、ということでしょう。
私は「休む」ことを自分自身に許していなかったのです。
う~ん、潜在意識の力、本当にビックリ。
今回は、この先に、確かに「希望」が視えています。