遍く愛。
真夜中、突然訪れた感覚だった。
目がさめていたのか、夢の中なのか、今となってはどちらかわからない。
ただ、そこに愛があった。
そして私自身も愛だった。
愛の偏在。
その一部としての私。
こんなイメージだ。
愛、という大きなエネルギーボールの中に、小さな粒子、分子としての愛がうごめいていて、私自身がその中の一つ。他の愛もオール・フラット。大きな愛もフラット。
考えられるのは、夢の中で覚醒したのか、あるいは、突然目が覚めたら覚醒の只中にあったのか。
もう一つ考えられるのは、愛犬・華実のヒーリングだ。
寝る前、私は右の首、リンパに腫れを感じた。体調不良でもあるし、そうでないとも言えるし。なんとなくの理由は私にはわかっていた。
けれど痛みが少しあり、熱もあった。
華実はそんな私の真横で朝まで眠ってくれていた。
いつもはそんなことはない。華実なりのヒーリングなんだろう、と朝、目がさめて感じた。
動物は、そうやって私たちを癒してくれている。文字通りヒーリングをしてくれている。
華実の場合、テレパシーでのコミュニケーションが苦手な方なので、私に「気持ち」を伝えてくることはめったにない。
一晩中私の横に寝ていたのは、華実が華実のエネルギーそのものを私に伝えようとしたからだ。さらに言うのなら、「伝えよう」という気持ちさえない。ただいつもの華実がそこにいれば、おのずとヒーリングが起きることを華実の本能は知っている。
遍く愛。愛の偏在。
それが華実の状態そのものなのだ、という事実。
ただ在るという状態を伝えて来たに過ぎない。
彼らは、私たち人間のバランスが崩れていることを肌で読み取る。全身で感じ取る。
彼らは言葉を使ってのコミュニケーションは苦手だが、エネルギーを感知する能力は、人間の数段上だ。
熱がある。バランスが崩れている。
それを彼らは、私たちのホルモンの変化によって感じ取る。
猫の場合は、さらにエネルギー体を視ることによって瞬時にその状況をキャッチする。
なぜ、愛猫・海・うみでなかったのかはわからない。いつもならヒーリングは海・うみの担当だから。
なぜかきのうは華実が担当した。
私のリンパの腫れとそれに伴うホルモンの変化をキャッチしたためだ。
そして、ただそこにいた。
私が感じた「遍く愛」は、おそらく華実のいつもの在り方、華実のいつものエネルギーなのだろう。
華実はただそこにいるだけで、在る、だけで、私を癒してくれた。本能的に癒やしの必要性を感じたのだろう。
おそらく、私たち人間も本来はただそこに「在る」だけで、誰かを、何かを癒やしている。
「癒やそう」という意識などもたなくても。
けれどそのことを忘れてしまっているので、「ヒーリングをしますね」というエゴが働きだすのではないか。
私の、真夜中のあの感覚は、いつもの華実そのもの。
いつもの海・うみそのもの。
本当は、ママだって同じなんだよ。
華実のメッセージが、真夜中の覚醒現象としてあらわれたのではないだろうか。
逆に言うと、動物は、おそらく植物も鉱物も、いつも「遍く愛」の状態でそこにただ「在る」。
そうやって人間は彼らに癒されている。
「癒やしてあげるよ」なんて思いをまったくもたない彼らに。
彼らが無条件の愛の存在である、ということはそういうことだ。
決して偉ぶらない。特別ぶらない。
私たちもそうなれる日は来るのだろうか。
華実のお蔭で、リンパの腫れも熱もすでに跡形もなくなっている。
同時に、大きな解放が、そこにあった。
彼らのヒーリング能力は、私より上。
上、下、ではないけれど、彼らの純度100の愛の力には、まったく及ばない。
動物を含む自然を支配する、なんて考えはまったくもってピント外れだ。
そのピント外れさえ、彼らは受け止めてくれる、ただ愛、として、愛の真っ只中で。
人間も本当はそれができるはず、なのに。
※ 追記
念のために言うのなら、これは覚醒体験でもなんでもありません。
ただ、私が愛の中に在った、というだけです。