※ 本題に入る前に
当エッセイは、新元号が発表される前日、2019/03/31に執筆したものです。執筆しながらも、内容がヘビーかな、と本日05/07までアップしなかったのですが、今朝、まさに「性の解放」というメッセージが届き、確かそんなこと書いたような、と管理画面をみてビックリ。
「予言」が的中していました。
また、05/05に「管理画面の細かい項目表示がいきなりすべて英語に変わっていて大変」とのお話をしました。「なんとかなる」と確信をもって、との希望を書いたところ、本日管理画面の英語がすべて日本語に戻っていました。
こちらも、「予言」の可能性あり。
すごいな、とシンプルに驚いています。ちなみに「性の解放」については、前エッセイでお話した「黒百合」ちゃんの意識が後押ししてくれたみたいですよ。
「性の解放」、昭和、平成と続いた私たちすべてに共通する課題。そしてそれは過去生にも関係する集合想念です。
↓ ここから本題です。
カウンセリング・セッションを行っている時に、突然湧いてきた「性」の解放という概念。
「性」の解釈はむずかしい。「セクシュアリティ」の言葉で表現する場合もある。「セクシュアリティ」とは、
・肉体的性差
・性欲
・性行為
・生殖行為
などなど。また、
・自己表現
の言葉にも置き換えられる。
最初に浮かんできたイメージは、女性性、男性性の抑圧と解放。
次に浮かんできたのは、性欲の抑圧と解放。
クライアントは女性。女性性の抑圧、解放の意味だろうか。
同時に性欲に関しても、私たちは誰もが抑圧をし続けている。自分自身で。
セックスは恥ずべきごと。
性に関する話題はタブー。
性欲はさらに恥ずかしいこと、などなど。
特に女性が性欲を持つことは、「悪」のイメージまでないだろうか。
実はこれらは、集合意識、集合想念として、一つの人格的イメージをなしているものたちだ。
「性」に関するモロモロを抑圧するから、性犯罪が増える。
性犯罪者の多くは、自らが性的被害者だったり、また自分の母親が性的被害者だったりするケースが少なくない。
性、あるいはセックスは良くないもの、わが身を脅かすもの、との刷り込みがその根底にある。もちろん、だからと言って犯罪そのものが容認されていい、という意味ではない。さらに性的被害者の心情を軽視するものでもない。
この永遠のテーマというべき「性」の抑圧と解放。
誰もが抱えている課題の一つ。
セッション時に浮かんできてくれたことは、Luckyだった。
私は、その後、時間を取って「性の抑圧と解放」の意識エネルギーを感じた。正しくは抑圧の意識エネルギーを感じきると、自動的にそれは解放へとつながる。
解放、という言葉がわかりにくければ「昇華」はどうだろう。
意識エネルギーは感じることで消えていく。
感じないようにすると、それは「抑圧」したことになって、私たちの体内に意識エネルギーとして蓄積されてしまう。
ただし、感じないようにする、という意識さえ、私たちには認識しづらい。
自己防衛本能が自然にそう働いてしまう、といった方が正しいだろう。
「性はいけないもの。セックスの話題はタブー」という刷り込みがあるので、それらしき場面、話題に遭遇すると、無意識のうちに、「いけない、いけない。こんなことに興味を持ってはいけない」と自分で自分の感情を押し込めてしまう。
そのエネルギーが過剰になった時に他者に対する性的暴力につながるケースが出てくる。
この、負の連鎖ともいうべき行為を押しとどめる一つの方法として、各人が自分の「性」に関する課題を解放していく、ということが考えられる。
そのためには、まず、自分が自分の肉体的性に対してどう感じているのか、もちろんジェンダーも含み、しっかりと認識することが必要だ。
さらに、例えば女性が自分の女性性を否定しているとしたら、その理由は何なのか、を探る。その結果として、どのような状況が生まれているのか。それは解決できる問題なのか。それともそのまま抱えていてもさしつかえのないものなのか、裁きを加えず、淡々と事実にだけ向き合う。
つまり、徹底的に自分の「セクシュアリティ」を解明していく作業が求められる。
その時に、過去の想い出などが浮かんで来たら、その時の状況をこれもまた裁きを加えず感じきる。
そうやって、その都度、「性に関する抑圧」エネルギーを感じていく。
そのプロセスを短縮したい場合には、セラピストなどの力を借りて、ヒーリングやカウンセリングを受ける、という選択肢もある。
いずれにしてもデリケートな課題なので、じっくり向き合うことが肝要だ。
私は、自分自身に「セクシュアリティ」に関する強い抑圧があることに気づいた。三年半前のこと。
以来、ことあるごとにその課題に向き合い、昇華作業を続けて来た。私の場合、個人意識だけでなく、集合意識につながりやすいタイプなので、毎回両者へのつながりを体感しているように感じる。
その集大成のタイミングが今回のセッションによってもたらされた気分だ。
平成最後の手放しが「性の解放」というのは、実に嬉しい。
「性の解放」がなされてはじめて個人的に新しい時代を迎えられる。
自分の内的タイミングと、外的時代の変化のタイミングがまさに重なった。
季節が春、というのも偶然ではないだろう。
植物の花は、植物にとっての性器だという。
彼らは、自分自身をさらけ出せ、と私たち人間にメッセージをくれているのではないだろうか。
ただ、自分自身であれ、と。
「セクシュアリティ」の中に「自己表現」という意味があるのも、なるほどうなづける。
性器に象徴される、その命の、生命力の限り、光の限りを輝かせてみろ、ということなのではないかと、続々と花を咲かせる、春の花々をみやりながら想いを巡らせる。
生殖行為は、私たちの生存欲求とほぼ = だろう。
性行為を否定するということは、自分自身の命を否定することにつながる。
「性」に関する話題のタブー視は、自分で自分の命を抹殺するようなものだ。
子どもたちに「健やかな自尊感情の育み」をしてもらうためにも、まずは大人が自分の課題に向き合う。
まずは気づいた人から。
来る新時代、近い将来、こういう話がオープンにできるようになっているだろうか。
可能性は大きい。期待して良さそうだ。
※ 追記
セクシュアリティと生命力の間に大きな関連があることをご存知ですか。
セクシュアリティにおける数々のテーマのバランスが、私たちの生命力へと直結しているそうです。 さらに言うのなら、その人の女性性・母性と男性性・父性のバランス。これはすべての人に備わっているとされる特性、あるいは意識です。
生命力というと、食べ物、という捉え方が一般的ですね。私もそういう観点で過去、情報を発信させてもらってきました。
食べ物はもちろん大切ですが、同時に、その一部でもある、ということなのでしょうか。
命をトータルで視る。
これもまた新時代のさらなるテーマなのかもしれません。