この国には「八百万の神」が存在するといいます。森羅万象、どんなものにも魂や霊が宿っているんだよ、と。
さて、私のコンタクトが「生きている」ことを確信しました。
ここ三か月くらい、コンタクトの調子が悪く、もともとタンパクの出やすい私の目、レンズの白濁状態が続いていました。
「ああ、肝臓の解毒作用がMaxに働いてくれているのね」
東洋医学的にみると、肝臓と目の状態は大いに関係あり。疲れ目、というのがありますが、あれも肝臓お疲れさんマークの一つと捉えていいかもしれません。
そのコンタクトが突然割れたのです、三週間ほど前。
現実的な解釈をするなら、「レンズの寿命」、だから白濁状態が続いていた。
が、ちょっと視点を変えると、目は魂の鏡。その目の状態が芳しくないからコンタクトも白濁していた。
つまり、コンタクトからのメッセージは「あなたの魂の鏡が曇ってるよ。真実から目を背けている証拠だよ」というものだったというわけで、なるほど、コンタクトにもきちんと役割があって、コンタクトの精霊はそれを私にわかりやすく伝えてくれたのね、と第一段階の解釈。
その後、コンタクトを新しく換えたので、すこぶる調子が良かったのですが、きょう、またも白濁が起こりました。
きょうは、スポーツ・クラブでのある、エクサイズのレッスンの日でした。以前大好きだったレッスン。ここニ、三回、何かがシックリこない。その理由もなんとなくわかっていました。
きょうも、行こうか行くまいか散々悩んで、それでも「行こう」という結論に。
そのレッスンに参加した途端、コンタクトの白濁が進み、ほとんどコンタクトの役割を果たさず。
しかも、同時にそのレッスンの先生のお話に身が入らない。まったくハートに響かないのです。
しばらくして、なんとか白濁がおさまり、レッスンは無事終了。家に戻った途端、何もしないのに白濁が綺麗になくなってしまいました。
コンタクトも生きているんだ、第ニ段階の解釈です。
好き嫌いの話ではなく、その先生の波動レベルが私にとって「ベスト」ではなくなった、という事実。その先生の話も私のハートに響かなくなってしまったし、先生の姿も私の魂の鏡を曇らせてしまう。
これは悪口ではなく、私の波動がそこにいるのにふさわしくなくなったということ。つまり、そのレッスン、卒業の時がきたよ、がコンタクトの精霊ちゃんのメッセージではないでしょうか。
私たちは、人間関係において、今まで大好きだった人がなんとなく「違うな」と感じるようになったり、今までキャーキャー言いながら共感意識を膨らませていたお相手が、急に「何も響かないんですけど」となったり、そんなことはしょっちゅう起こります。
これを「あなたがわがままだから」とか「あなたは飽きっぽいのよ」とか、「あなたは気分屋なんだから」と、どちらかと言うとその人の欠点と取るのが、この世界の常識になっています。そして本人も「私の問題かな」と罪悪感を感じたり。
少し俯瞰で眺めてみましょうか。
「そこはあなたの居場所ではなくなったよ。自分にふさわしい場所に移っていいんだよ。それを変化、というのだから」
そう、今回のコンタクトの白濁は祝福のメッセージだったのです。もちろん、その先生に非があるのではなく、単に私の居場所が変わった。それだけ。今までは大切なご縁だったけれど、そのご縁の形は変わったよ、という、あちらからのメッセージです。
それを自分自身でふんぎる勇気がなくて、それでコンタクトが後押しをしてくれたのではないでしょうか。
だとすると、コンタクトにも精霊はいますね。
どんな人工物でも、精霊は宿っている。
そもそも、自然、と言われるほとんどのものは、自然風だったり自然流だったりはするけれど、100%自然のものなんてほとんど存在しないに等しいのが、この地球の真実です。
自然志向という言葉は、不自然に暮らしているから、少しでも自然風を意識したいことのあらわれです。
例えば、私の住むこの街は埋立地です。海が近く、また緑にあふれています。自然いっぱい、と言いたいところだけれど、現実には自然風がいっぱい、なだけ。それでもその一つ一つに霊が宿っている。
であれば、コンタクト・レンズに霊が宿っていてもおかしくはありません。
コンタクトの白濁、という現象面だけを追いかけていたら、「また、たんぱくがついた。洗浄液で洗おう」でお話はおしまいになってしまいます。それで納得できる人はいいけれど、私のように、「何のメッセージ ? 」と感じてしまうタイプには、何らかの必然が必要です。たとえ、それが完全なるこじつけ、妄想の類だったとしても。
今朝起きた時、目の調子はかなり良かったんです。だからこそ、そのギャップが冴えました。そしてそのギャップの中に、「自分の魂の鏡に忠実に」という、あちらからのメッセージを感じました。
これが裸眼だったら、あるいは眼鏡だったらこのメッセージは感じられませんでした。
コンタクトにも、きちんと存在意義がある、ということ。そのお役目は、高次の存在と何ら変わりはないということ。森羅万象すべてのものに命が宿り、すべての命の役割はフラットだということ。
この世界観は、大事にしたい、この国の大いなる遺産ではないでしょうか。
誰か、どこかの権威が承認してくれなくても、私たち一人一人が人生の権威となって受けいれればいいことなのですから。
※ 追記
このエピソード、「権威社会意識」からの卒業、を意味していますね、私自身の中の課題として。