人の死の痛みの昇華はそれぞれです。
私はどうやら死の痛みの昇華が苦手な方らしく、それが何とか流れ始めてくれています。
当エッセイ執筆は2019/04/13でしたが、翌日に義父の一周忌の法要があったため、さらにエネルギーが流れてくれました。アップは2019/04/15。
当エッセイをみて、私を冷たい人間だと感じる人がいるかもしれません。
それでもあえてアップしますね。
私の昇華の仕方はこう、なので。
ここ数日、肺の大掃除が続いています。去年の大晦日から、ずっと肺からの咳に向き合ってきました。それなりに重い感じの咳です。ただし、毎日、というわけではなく、しかも時間限定。
これだけ咳が続くと、普通は「病気では ?」と疑いを持つところですが、私の場合、そもそもがへそ曲がりな性格なので、「これは病気ではなく、身体からのメッセージ」と、ずっとその真意を探り続けていました。
ここ、二・三日、一旦止まっていたものがまた新たに顔を出し始めている感覚で、「いよいよ、仕上げ段階だな」と感じていました。
肺。東洋医学的に視ると、副鼻腔炎なども肺からの症状とのこと。
これが「肺からの咳」の原因、解決のめどへとつながりました。
そう言えば、私は昨年の秋口から、かなりの比率で鼻声になることが増えていました。今年に入って、この花粉症の季節、鼻づまりが何度も起きています。以前は重篤な花粉症だったのですが、5年前くらいに克服。以降、それらしき症状は出たとしても数日でおわっていました。ところが今年は、これもまた鼻づまりが起きたり、治ったりの繰り返し。
鼻づまり、鼻水などいわゆる花粉症の症状とされるものは、すべて肺からきている、というのが東洋医学の考え方です。東洋医学的に視ると、各臓器と親和性の高い感情、というものがあって、肺は「悲壮感、哀しみ、嘆き、憂い」などであることもわかりました。
なるほど、「哀しみ」だ。
ピンと来ました。私は昨年の今頃、元親友ともいうべき友達が突然死をして、その死に相当ショックを感じていました。けれど私には抑圧癖がついているので、その「哀しみ」を感じないようにと自分の中に閉じ込めていたのです。潜在意識でのお話。
さらに。
その友人の死は、母の死とも重なりました。
母もまた突然死で亡くなりました。共に、一人の時に。つまり形として孤独死と言われる状態です。
私の場合、母が亡くなり、その後父、兄が亡くなりました。すべて突然死です。愛猫、ぴぴ麿、海・かいも亡くなりました。海・かいもまた限りなく突然死に近い形でした。
そして友人。
そう。私は母が死んだ時に、その哀しみを感じつくすことができなかったのでしょう。それくらい母の突然死は私にはつらいものだったのです。旅立ちの数時間前に電話で話したばかり。まったくいつもと変わりはなかったのに。
その時の感情を昇華しきれないまま、今にいたっていた。
そのことに結果的にピリオドをつけさせてくれたのが友人の死だったという事実。
点と点がすべてつながりました。
平成。私にとっては喪失の痛みの時代でした。
その痛みを感じきれないというこころの状態で生きてきたため、平成の最後の最後、私は自分自身の肺にダメージを背負ってしまったのです。
それが半年間続いた副鼻腔炎、そして4か月続いた肺からの咳のメッセージです。
このまま何も気づかず、新時代に入ったら、私はまたも「哀しみ」の抑圧という、心のゲームを続けなければならなかった。そうなれば肺からの咳も鼻づまりもますます悪化していたことでしょう。
平成の痛みは平成のうちにクリアにしてしまいなさい、というあちらからの愛のメッセージだったのですね。この半年間にあらわれた私の症状が。
母の死因は「無熱肺炎による呼吸不全」でした。
その時の母の苦しみを私は感じてしまい、それを手放せないままずっと握りしめて生きてきたようです。肺からの、重い咳をすることで、母の苦しみを共有しようとしていたのか、それともそれ自体が母との最期の想い出だと握りしめていたのでしょうか。
昨年の春まではこのような症状はまったくなかったので、友人の死がトリガーとなったことはまちがいありません。友人の突然死は何をどう考えても淋しくて仕方ありませんが、彼女の魂の愛と友情には感謝の想いでいっぱいです。
※ 追記
当エッセイは「2」に続きます。