お気に入りのパスタ屋さんでのランチ。
スイーツ付き。
きょうは「桜のシフォン」、初お目見え。
一口口に含むと、ホワ~っと桜のエッセンスが口の中で拡がる。
これが桜なんだな、と。
桜の魅力は「そこはかとなく」桜なところなんだと気が付く。
例えば薔薇。例えば百合。例えばハイビスカス。どれも私の好きな花だけれど、彼女たちは「そこはかとなく」ではなく、ダイレクトにその存在を主張する。
桜はそのたたずまいで、私たちを包み込む。
桜の魅力を一言で言うなら「包容力」。
しっかりと抱きしめられるというより、遠巻きに、けれど優しく抱きしめられている感じが心地いい。
もしかして、これは、欧米の人と日本人の違いを端的にあらわしてはいないだろうか。
欧米の人は、きっちり自己主張する、自分は自分だ、と。
日本人は、そこにある意味奥ゆかしさが加わる。そこはかとなく。もちろん、それが欠点になることもある。
その両者の違いに優劣はないはずだ。
それなのに私たちは欧米人になりたがる。
欧米の人は日本人になりたがる。
大元の構造というか、意識の根本が違うのだから、どうやったって、私たちは欧米人にはなり切れないし、欧米の人はどうやったって日本人にはなり切れない。
ただし、二つを融合することはできる。
欧米人のエッセンスの降りかかった日本人。
日本人のエッセンスの降りかかった欧米人。
そこには歴然とした違いがあって当たり前だ。違うのが当たり前。同じであるはずがない。そしてどちらにもメリット、デメリットがある。そのメリット、デメリットは同価値だ。どちらが優れていて、どちらが劣っているということはまったくない。
そこに争いは必要ないということだ。
そんなことを桜シフォンが教えてくれた。
桜シフォンをいただきながら、飲む瞑想に入る。
呼吸に意識を寄せてコーヒーをいただく。
ところが、いつも出てくるハート模様が出てこない。
ハートを意識しすぎたせいだろうか。
これは、私のヒーリング・セッションでも時々起こる現象だ。
ヒーリングの施術を受けてくれる人、ヒーリーがあまりにもヒーリングでの体感を期待しすぎると、何も体感が感じられないということが現実になる。もっとも体感はなくてもヒーリングのエネルギーは届いている。ヒーリーは期待が外れてがっかりするけれど。期待が大きい分、ガッカリ感も大きくなる。
強すぎる期待がさまだけになる。
スポーツ選手などにもこの現象は起こる。
「無欲の勝利」
何も欲を感じず、無になった時の方が本来の力を発揮しやすいということのあらわれだ。
そんなことを感じてコーヒーを飲み終えると。
カップの中に、二つのハート・マーク。
まるで桜の花びらが重なり合うかのように。
欲がいけないわけではない。
今、自分はどん欲な状態だ、と意識すれば、その欲がプラスに作用することもあるのかもしれない。
桜の包容力は時に大らかさでもあるようだ。
日本人は、本来おおらかな民族だ。
その血が私にも流れている。
桜。
死と再生、覚醒の意味を持つ、花。
きょう、あのお店へと招待してくれたのは、きっと桜の精霊だ。
雨の一日。
愛犬・華実とのお花見散歩が楽しめない代わりに、桜シフォンのスイーツ付きランチが桜との対話時間へとかわった。
いつものように桜林に行っていたら、出逢うことはなかったサプライズ。
何かを一つあきらめる。すると何かが補填の形であらわれる。
欲も悪くはないけれど、欲を手放すのも悪くはない。
どちらも楽しんでしまえばいい。
桜はきっとそう言ってくれているのだろう。