桜をみながら、飲む瞑想をする。
瞑想とは本来は行為ではなく、その状態のこと。
以前、飲む瞑想、という言葉を目にして見よう見まねで試してみたことがある。
その時は、インド・カレー屋さんのチャイ。
息をしながら呼吸に意識を合わせ、それと共にチャイを口にする。
すると、どういうわけか、チャイの表面がハート模様になった。何度やっても結果は同じだった。
しばらく飲む瞑想から遠ざかっていたけれど、しばらくぶりに今度はコーヒーで試す。
またもコーヒーの表面がハート模様になる。
しかもきょうは宇宙からのエネルギーだろう、ヨーガの伝統でいうところのプラーナらしきものも視ることができた。プラーナとは、一般的には宇宙から届く生命エネルギーたと言われている。正しくはそこに「在る」生命エネルギーかもしれない。実際のところプラーナと断定はできないが、当エッセイでは「プラーナ」として話をすすめる。
なぜ表面がハート模様になるのか。
おそらく、私の潜在意識は、瞑想とは愛と同一化、同調すること、と感じていて、その象徴はハート・マークだと思っているのだろう。
プラーナに関しては、想定外のできごとだった。
以前よくプラーナを目にしたのは、海外でのリゾートでのこと。
数年前、ベトナム旅行をした時は、ホテルの部屋にいる時もホテルのプール・サイドにいる時もプラーナがたくさんあらわれて、一時的に自分の波動が少しだけ軽くなったのだろう、と感じた。
プラーナはたいていの場合、好天の中で光る。
きょうは花曇りと言ってもいいほど、空は淀んでいた。その中でプラーナがみえたことに少しだけ驚いた。
プラーナは好天の時に視えるもの、という刷り込みがなされていたのかもしれない。ということは、私は好天と曇天、悪天に優劣をつけてとらえたいたのだろうことがわかる。
きょうは良いお天気ですね。
きょうはあいにくのお天気ですね。
こんな挨拶があたりまえの中で生きてきた。
良いお天気も悪いお天気もその人の主観でしかないことに気づいたのは、つい最近のこと。
以前は雨降りが苦手だったのに、それに気づいた途端、雨も悪くないなと感じられるようになった。
きょうのような花曇り、花冷えもまた、私にとっては悪くない。
そんな中であらわれたプラーナは、私たちの体内にも取り込まれている。
厳密にそうかどうかはわからないが、よく「カスミを食べて生きる」という表現があるけれど、私はそれがプラーナではないかと感じている。
その理論で言うと、本来私たちはプラーナだけでも食べていける生き物のはず。私には無理だ。食べ物、飲み物、しっかりいただきたい方だから。
プラーナが視える時、少なくともハートのバランスが大きく崩れているということはない。
プラーナが見え始めた当初は、正直、ウキウキ気分だった。
それも「エゴ」のなせるわざらしい。
私の場合、「エゴ」は友でもあるので、きょうも密かにウキウキしていた。
本当は誰でも視えるもの、だと思うけれど、その認識がないと気づかないこともあるだろう。
飲む瞑想は、いたって簡単だ。
呼吸に合わせて、心静かに何かを飲むだけ。
その状態がハート・マークにつながり、宇宙の生命エネルギーにつながる。
シンプルな法則がそこに見え隠れする。
こんなにシンプルなのに、なぜか私たちは大切なことを忘れているようだ。
桜がそのことを思い出させてくれた。
興味がわいたら、試してみるとおもしろいだろう。
花冷えのお蔭で、桜の季節は続いている。
晴天の下だけでなく、桜はどんな天気の下でもただ「在る」。その、ただ「在る」感に同調させてもらう。
それもまた瞑想だ。
瞑想を特別視するより、日常視した方が断然おもしろい。
現実には、なかなかそうなりきれない自分がいるのも、それはそれで楽しい。
※ 追記
連日、お花見散歩を楽しんでいます。
桜の花びらのカーペット。時々花の舞い。それでも桜はまだ9割くらい咲いています。
贅沢なお花見散歩。
そのパートナーは、愛犬・華実・はなみ。
花を観るために、華やかな実りを楽しむために、華実は私のところにやってきてくれたようです。
今年で14回目の華実とのお花見散歩。
華実自身は、「ああ、桜が綺麗だね」なんて素振りはまったく見せません。
ただし、わんこは、私たち人間の感情とホルモンを嗅ぎ分ける能力がありますから、私が幸せであれば、華実も幸せなお散歩タイムを過ごしてくれているのです。
さらに、わんこは自然と対話したり、同調したりが得意です。
それらのおすそ分け、私たちはいただくことができるんですよね。
お家に動物がいなくても、外で動物に逢う機会があったら、静かに彼らの息遣いを感じてみてはいかがでしょう。
彼らは、人間より遥かに分かちあいが得意な生き物です。