敗北感。
誰の中にでもある感情。
ところが、今朝、ある出来事に対して、敗北感がわいてこないことを感じました。
今までだったら、必ず、といっていいほどわいてくるシチュエーションなのに。
敗北感を感じきるとその先にあるのは。
祝福、でしょうか。
私は何に対して敗北感を感じていたのか。
自分自身、まず。
そして、自分が男性に生まれてこなかったこと。そう、男性コンプレックスです。
同時に、支配層、権威・権力者に対しても敗北感を感じやすいタイプでした。
もっとも自分が敗北感を感じているらしい、と気が付いたのは、割と最近のことです。
さて、男性コンプレックスと権力コンプレックスをあわせてみた場合、「メサイア・コンプレックス」というものが浮かんできます。
メサイア、つまり救世主です。
この概念には数年前にたどり着いていました。
メサイア・コンプレックスもまた、誰にでもある意識概念です。
救世主にはとてもかなわない。だから自分が救世主になってしまえ、という逆説的な意識。
私はそう捉えています。
これが暴走すると、カルトの教祖的存在を目指し始めるようになります。
興味のある方はご自身でお調べいただくとおもしろいかもしれませんよね。
何かの種をまくのが私のお役目。
一問一答のように、すべての答えは提示できません。ただ、何かのヒントくらいにはなるかと。
いずれにしても、私の中から敗北感が湧き出てこなくなった。
これは相当な進歩です、自分自身の感情を抑えているのでなければ。
その可能性に期待するのなら、私の中の大きなコンプレックスと劣等感、さらにプライドなども影を潜めてしまったのか、現実にはそれはあり得ないので、自分の中で大暴れしない程度の統合が進んだ、ということなのかもしれません。
昭和と平成。
私にとっては、さまざまなことが敗北感につながりかねない要素として存在していました。今振り返ると。
令和を前にして、それがどこかに流れてしまった。
紛失届を出さなければいけないのか、流れに感謝するのか。
今の私は迷わず後者。
感謝と祝福に何かのつながりがあることを味わいながら。
数日前、私の中ではすでに新時代なのです、とお伝えしました。
その通りのことが起きています。
実は新元号発表の日に、元号が変わると勘違いしていたほど。
その勘違いは、私の意識の「本当」だったことがわかります。
そう。私の意識はすでに「令和」を生きているということみたいですね。