私は必要以上につるむのが苦手、群れをなすのが苦手なタイプです。
スポーツ・クラブに通い始め、知らないうちにグループのようなものができて、しらないうちにそこのメンバーに加えられていて。
そこに「所属」していた時はわからなかったけれど、きょう、そういうことだっんだ、とひざを打つ感覚。
私が受けるのはヨガ・マットを使うレッスンがほとんど。ヨーガだったり、ストレッチだったり、ピラティスだったり。
前エッセイでお話したように、ヨーガに煮詰まり、ヨーガを一時卒業。同時にストレッチも卒業しました。その時にはそれなりの理由があったのですが、気持ちのどこかで「今まで両方続けてきたから健康でいられたのに、やめてしまって平気かな」という、漠然とした不安を感じていたのも事実。
いつか戻ろうかな、と。ストレッチに関して。
ヨーガ・レッスンもストレッチ・レッスンもあるおばさまがヨガ・マットをしいて席を取ってくれていたのです。
いつからなんだろう ? 3年くらい前かな、もっと前かな。
まったく自然な成り行きでいつからだっからかもわからないほど。
私はスポーツ・クラブのそういう形での「席とり」はあまりフェアではない気がして、何度かそのおばさまに「結構です」という意味の言葉を丁寧にお伝えしていたのですが、「いいのよ、好きでやってるんだから」との返事に、「まっ、いっか」と。
そして、きょう、別のおばさまから、「あの席とり、感じ悪かったわよ。私がちょっと置こうとすると、ダメダメここは、って言うんですもの」との言葉を聴いて、なるほどね、と腑に落ちました。
席を取ってくれていたおばさまを A さんとします。
Aさんとは、スポーツ・クラブでしか逢わないし、たまにショッピング・センターなどでお逢いしても「こんにちは」と挨拶する程度の関係でした。
Aさんは、もちろん好意でやってくれていたのでしょう。私以外にも数人の「所属メンバー」がいました。
でも、そのメンバー以外には気を遣わなかった。遣わなかったどころか、結果的に排他的でさえもあったということです。
メンバー以外の人から視れば、私もその一員だと思われていた可能性がある、ということですね。
一種の「所有欲」「独占欲」ですね。「私が面倒みるから、私の仲間になりなさい」という。
その仲間意識は同時に、その輪に加わっていない人を排斥したことになるわけです。
もちろんAさんの顕在意識でそこまで考えていたわけではなく、潜在意識のなせるわざ。Aさん自身、そんなことはこれっぽっちも感じていないはず。
でも心のどこかで「同属で群れる安心感」を感じていたかったのかもしれません。
無意識のうちにそのメンバーに選ばれてしまった。ということは、私の深層心理、潜在意識にも同じ想いがあったということなんでしょう。
私の無意識は、そこにある排他性も同時に感じ取っていて、ここからは離れた方がいい、と思う気持ちが膨らんで、ついにレッスン・そのものをやめる、という選択をしたのではないでしょうか。
あのままレッスンを続けていたら、他の誰かがまた「ダメダメ、そこは」と言われて不快な気分になっていたかもしれません。
スポーツ・クラブは基本「解放」のためにあると私は感じています。
もちろん少しの我慢は必要なこともあるけれど、せっかく気分を良くするために行ったのに、そんなことで「ダメダメ」と言われるのも気分はいいものではないでしょう。
ま、上手の人がいて、「ああ、この人は、間違った自己肯定をしているんだな」くらいに感じている人もいたかもしれませんけど。
私自身は席を取ってもらって、楽だなと感じた反面、もういいのにな、と感じていたことが多かったので、実はそのこと自体もストレスだったんだ、とわかりました。
私はストレスを感じる場に身を置くことが苦手、それもあって、ストレッチをやめたんだな、と思ったら、気分がスッキリしました。
年代も性格も異なる人が集まる場所なので、すべて、自分の感覚と合う人ばかりではありません。それはどこでも同じこと。
でも、つるみたくもないのに、結果「群れ」ていたとしたら、それはそこを離れて正解です。
ああ、守られて、ストレッチ・レッスンを卒業したんだ、と気づきました。
私が根性がなくて挫折したのではなく、そうなるべくしてそうなった。
ということは、もうストレッチ・レッスンに戻らなくても大丈夫なくらいの健康状態になっているということかもしれませんね。
何だか、たくさんの解放感、いただいちゃいました。
本当に群れたい時は私も群れます。
離れて視える真実がある。
手放して視える真実がある、ということ。
安心して、どんどん手放していこう、っと。
ある意味、上昇気流に乗っかった気分です。今の、この感覚。