新元号「令和」。
その前に「平成」とは何を意味していたのか。
なるほど、「平らかに成す」時のことだっんだな、と腑に落ちました。
平らか、「フラット」。
私の中にはすべてのものが同じ価値を持つ、というイメージが浮かんできます。
善悪。善も悪も同じ価値。
光と闇。同じ価値。
高次と低次。同じ価値。
生と死。同じ価値。
この地球の意識概念のすべてが同じ価値、という意味です。
私たちはずぅっと、善は良いことで悪は悪いことで、あたりまえだけど。その価値は善が絶対的に上、と教わってきました。
けれど善は悪という概念がなければ、それ自体では「善」になり得ない。「悪」があってはじめて「善」が成立する。
確か、これは光の加減、というとらえ方があるはずです。
善も悪も本当は同じエネルギーだけど、光が増えるとそれは「善」になり、光が少なくなると「悪」になる。
光を愛に置き換えると、さらに話は伝わりやすいかもしれませんね。
すべてのことは一見対極にあるものと一対をなして、コインの裏表をなしている。
コインは裏だけでも表だけでもコインにはなりません。
この考え方は、中国の「陰陽思想」と呼ばれるものです。
三年くらい前にこの考え方がハートに響くようになり、自分の中の一つの柱になりました。
自分は善だと思って行っていることが、視る人から視れば悪、に視えることがあるかもしれない。
それこそ、立場が正義、というか。
その立場の違いは、すべてその人の潜在意識による、という。
個人的にはそんな考え方がシックリくるようになったのです。
そうやって、自分の中に一つの価値観として築き上げられたものたちの「枠」を全部取り払って、まっさらにする。
そう、意識の中に更地を創る感覚。
これが私にとっての「平らかに成す」のイメージです。
私たちは肉体を持っているので、デフォルトはもちろん「二極」「二元」です。
けれどそれは対立する相手としての「二極」ではなく、自分が存在するための相手としての「二極」というとらえ方をしていくと、相手に対する敵対心が減ってきます。
敵対心が減ると、自己防衛本能も弱まるので攻撃性も薄れます。
もちろんゼロにはなりません。なかなかどうして、人間はそんなに簡単には創られていないみたいです。
けれど、それらのことを少し意識していると、少しだけこころがフラットになります。
視方を変えると、少しだけ優しくなれる、他者に対して、自分に対して。
そう、この世に存在するものは、「敵」ではなくて「味方」だという考え方が自然にわいて来るからです。
それでもまだまだ「敵」意識を持つ自分を感じたりしながら、それもまた「ヨシ」と思える自分が生まれていたりします。
平成は、きっと私にとってはそんな時代でもあったんだろうな。
更地になったからと言って、すべてがなくなったわけではありません。
すべてがシャッフルされた、という感覚でしょうか。
何も存在しない「ゼロ」ではなく、すべて存在している「ゼロ」、かな。
その「ゼロ」の中から何を引き出すか、何を際立たせるか、それとも何も引き出さず、何も際立たせないのか、それは今はまだわかりません。
ただただ流れに身を委ねる、ということしか。
まったく個人的に、この感覚がすでに始まっています。
今まで大騒ぎしていたことがウソのよう。
でもきっとこれからもまた大騒ぎをしそう。
それでもなんでも「ヨシ」の時代。
気持ちいい風ですね。