新時代の風~合わないものは合わないと認める

新年度初、ピラティス・レッスンの日。

 

ピラティスは去年の春にはじめて、まもなく2年目に入ります。

 

途中から別の先生のレッスンも始めたので、ピラティス・レッスンは週二回。

 

14年続けたヨーガ・レッスンに疑問がわき始め、そんな中でのピラティスとの出逢い。

 

結論から言って、ピラティスは私に合っている。

 

ヨーガは先生による。

 

そのことがわかりました。

 

 

 

ヨーガ歴10年のお友達が肩を痛めたというのでピラティスをすすめました。

 

その彼女がきょう、言ったのです。

 

「やっぱりヨガは身体を痛める気がする。今度は手首が痛くて仕方ないんだ」

 

彼女は筋トレの目的でヨーガを続けています。元々華奢なタイプ。

 

「ヨガはどっちかというと、男性向きなんだと思うよ。筋トレ目的だから。今のヨガは、ヨーロッパの健康体操がベースだから」

 

「そうだよね、男性向きというのはすごくよくわかる」

 

この後会話は続くわけですが、そうなのです、健康ブームや自然志向の中でヨーガ = 健康のイメージが定着しているけれど、ヨーガが合う、合わないは絶対にあります。

 

どんなに良いとされるものでも万人に合うものなんてありませんものね。

 

あるヨーガの先生が言っていたのは、「インド人は日本人より手足が長くて柔らかいので、元々日本人にヨーガはキツイところがあるんですよ」と。

 

さらにインドではヨーガは三時間コースがあたりまえ。一つのポーズ、アーサナと言いますが、それをやったら死体のポーズで休憩を入れる。ゆっくりゆっくりペースなんだそうです。日本の場合、それを一時間くらいに短縮するからそもそも、がキツイ運動になってしまうんです。

 

ヨーガ = 解放のイメージが強いけれど、ポーズ優先のハタ・ヨーガは、よほど相性の良い先生に出逢わないと、真の解放感は得られません。

 

少なくとも私は14年間続けて、ポーズ、アーサナだけだったら、ストレッチ体操以上のものは得られなかったと感じています。

 

もちろんストレッチがいけないとか足りないとかの意味ではなく目的が少しだけ違うということ。さらにハタ・ヨーガをはじめとする近代ヨーガがいけないとか、ではありません。

 

合う場合もあります、もちろん。

 

それはもう、体質というか性格というか素質、素養の問題で、合う人には本当に素晴らしいもの。

 

これはヨーガ批判ではなく、いくらブームでも「合う」「合わない」はあるので、ちゃんと自分で見極めることが大切なのでは、というお話です。

 

ヨーガのそもそもの目的は「瞑想」です。さらにさかのぼると「カルマ・ヨガ」と言って、瞑想状態の中でさまざまな行いを行うというのが本来のヨーガの姿なんだとか。

 

アーサナは、座って行う瞑想のために、身体をかためないように、と考えられたもの。

 

私は個人的に「カルマ・ヨガ」の考え方が合うので、確かに私の行ってきたのは無意識のうちに「カルマ・ヨガ」だったんだな、と最近わかりました。さらに椅子に座ってのなぁんちゃって瞑想、これが10年。

 

その混合体としてのヨーガが私にはちょうど良い感じ。何か一つ欠けても、バランスは崩れていたような気がします、私にとってのバランス。

 

 

 

ピラティス・レッスンの後、一人でお花見ランチを楽しんでいたら、以前同じスポーツ・クラブに通っていたおばさまに遭遇。いろいろとお話をしているうちに、そのおばさまがこう言ったのです。

 

「あのね、人に合わせなくちゃいけないとか言われるけど、ある程度歳がいったら、合わないものは合わないと見切りをつけて、自分に合うものを探した方がいいのよ。時間がもったいないじゃない ?  みんな一緒なんて言ってるけど、しょせん人は一人なんだから、誰かに合わせていたら、続くものも続かなくなっちゃうわよ」

 

共感しまくりです。

 

ヨーガ = 心身に良い、心身調律につながる。

 

そのことを信じていたけれど、今思うと、アーサナだけのヨーガ・レッスンは結構なストレスでした。

 

去年、迷いに迷って、14年間続けたヨーガ・レッスンを一旦やめたことによって新たな先生に出逢い、呼吸法メインのヨーガ・レッスンを始めることができました。

 

それこそ、ストレッチと割り切って受け始めましたが、呼吸法の指導を徹底して行ってくれるので、私の中では今まで受けた10人強の先生の中でベストのヨーガ・レッスンとなりました。

 

今、再び、以前の先生のレッスンに戻ろうとは思いません。

 

これこそが相性、なのですよね、きっと。

 

 

 

日本人は「合わない」ということを選択すると、「我慢が足りない」とか、「あなたがわがままなだけでしょ」とか、そういうことを言われることの方が多いけれど、「合わないもの」を「健康にいいから」と我慢して続ける必要はありません。むしろ逆効果につながります。

 

そもそも健康っていうのは、ストレスが少ない方が効果的にあらわれるものなのですから。

 

私はヨーガに疑問を持ちました。否定ではなく疑問。その疑問があったから、ピラティスに出逢えたし、またヨーガの、私と相性の良い先生にも巡り合えました。

 

そのまま、疑問を持ちっぱなしでヨーガ・レッスンを続けていたり、疑問さえ感じなかったら、こういう考え方にはたどり着かなかった。

 

疑問を持つことは、ちゃんと意味のあることだということです。「合う」「合わない」を識別して、なぜ合わないんだろうと疑問を持つ。その理由を取り除けるような新しい方法を探す。

 

かなり能動的、主体的ですよね。

 

 

 

私は子どもの時から割と好き嫌いがハッキリしている方で、それをすごく抑え込まれてきました。私自身がそのことを受け容れてきたわけです。

 

あまりにも「好き」「嫌い」だけで物事を視ているのもなんだけど、そこそこの「Yes or No」があるのは、私にとってはメリットの方が大きい気がしています。

 

「好き」もあるよ、「嫌い」もあるよ、そのどちらもが私だよ、ということをきょうのおばさまが教えてくれた気分で、とても晴れやかな気持ちになりました。

 

「陰陽」でみて、どちらがあってもあたりまえ、どちらも価値は一つ、なのに「好き」は良くて「嫌い」はダメ、って思考を修正されるのって、おかしい。

 

多分、今の私は小さい頃の自分に戻って両親に主張している気分なんじゃないでしょうか。

 

あのね、私は私なの。

 

お父さんもお母さんもそれをわかってね、と。

 

 

 

ピラティスは体幹を整えるエクササイズなんですが、身体をまっすぐに戻す、という目的があるんです。

 

身体をまっすぐに戻すと心もまっすぐに戻る。

 

私はまだまだまっすぐになるほど身体が整っていないけれど、少しだけ気持ちがまっすぐに近づいているみたい。

 

気持ちのまっすぐとは、誰かからみての「優等生」ではなく、自分自身に正直に、の「優等生」。

 

この違い、わかりますか ?

 

「令和」

 

これはあるルールにのっとり、和を以て生きなさい、という意味。

 

私はそのルールの基準は「自分自身」。自分自身の和を崩さずに生きなさい、と捉えています。

 

自分の気持ちにウソをついて、見せかけだけの和を目指しても、どこかで破綻するのは目に視えているから。

 

少なくとも私はそうだから。

 

私は私。

 

昭和と平成の時代は、「我慢」がテーマでした。

 

令和の時代は「自由」がテーマ。

 

いつ死んでもおかしくない。年齢なんて関係ないですよね、旅立ちに。

 

だったら、今、この瞬間を思い切り楽しまないともったいない気がします。

 

う~ん、私、相当我慢して生きてきたのかもしれません。

 

 

 

明言できます。

 

私は社会不適合者です。そんな自分にちゃんと居場所を創ってあげる。

 

それは私にしかできないこと。

 

自分を大切に。

 

自分を愛して。 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

※ 追記

 

最近当エッセイは、区切りのいい時間や、時間と分が同じ時刻にエッセイを書き始めていたり、書き終わったりしていることが多いのです。

 

今、この部分を書き始めたのは「1717」。17の数字は、開花と祝福の意味があるんだとか。その一方でわが道をつらぬく頑固さも併せ持っている。

 

まさに、というメッセージ。

 

きょう、ふと感じたのは、人って少しわがままなくらいな方が、元気に生きられるんじゃないか、ということ。

 

多分、今まで抑圧して生きてきたから、本当の「普通」がわがままに感じるだけなのかもしれません。

 

日本人って基本的に抑圧大王なんです。

 

自分自身で気が付くこと。大切なことかもしれませんよね。

 

 

 

 

 

 

 

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