自分自身への無条件の愛

自分自身を無条件に愛している人は少ない。

 

無条件とは、条件なしにすべてを受け容れるということだ。

 

桜の季節。

 

桜色は、無条件の愛の色。

 

同時に女性性の色でもある。

 

女性性の象徴的エネルギーは、受容。

 

そう、無条件の愛とは、無条件に自分を受け容れる、ということなのである。

 

自分がどんなにイヤなヤツだったとしても、自分はそういうヤツなんだ、と受け容れる。

 

自分がどんなに欲深い人間だったとしても、自分は欲深い人間だ、と受け容れる。

 

そこに裁きは要らない。

 

「だから自分は良くない、人間として正しくない、人間として美しくない」

 

そんな裁きは一切要らない。

 

このことがわかるまでに今までかかった。

 

頭での理解はもう少し早かった。

 

なかなか腑に落ちない。

 

今も100%理解できているかというと怪しい。

 

それでも少しだけ、無条件の愛らしきものが視えてきた。

 

まず、自分への愛。無条件の愛。

 

するとそれが自然に周りにあふれ出す。

 

自分の中を無条件の愛で満たす。

 

満たすことはできなくても、少しずつでもそのエネルギーをためて行く。

 

自分への無条件の愛貯金のように。

 

するとその口座からはいつでも無条件の愛という貨幣が降ろせるようになる。

 

コツコツコツコツ、1円貯金でもやらないよりはましだろう。

 

500円貯金ならどうだろう。

 

コツがわかるようになったら、10000円貯金だって夢じゃない。

 

あえてお金の話にたとえたのは、その方がイメージが伝わりやすいからだ。

 

そしてお金は実は愛のエネルギーと等価交換できる場合もある。

 

それは無償の愛とは言わない。

 

そうだろうか ?

 

お金が関与する愛は美しくなくて、お金が関与しない愛こそ麗しいのだろうか。

 

それは無条件の愛とは言わない。

 

条件付きの愛。

 

お金を差別している、愛より劣っていると。

 

それは物質的なものは、精神的なものより劣っているという価値観のあらわれに他ならない。

 

この世に存在するものは、すべて等価なはず。

 

そうでなければ私たちは地球の細胞として有機的に作用することができなくなってしまう。

 

すべて役割の違いなだけで、お互いが協調の関係になれるのは、お互いの立場が対等だからだ。

 

こんなことも数年前に頭での理解に及んだ。

 

なかなか腑に落ちない。まだまだ、だ。

 

自分自身への無条件の愛。

 

今の私が考えていることの一歩を踏み出すための当エッセイである。

 

わざと愛のトーンを抑えた。

 

なぜなら、自分自身への無条件の愛とは、過大評価でもなく、過小評価でもなく、等身大の愛に他ならないから。

 

自分はこんなに愛の人間だ、と自分を大きく見せる必要はない。

 

自分なんてこんなに小さな人間だ、と自分を卑しめることもない。

 

自分は自分。

 

どこから視てもこのサイズだ。

 

そうやってはじめて自尊感情が育まれる。

 

自己受容が進む。

 

自分の存在の大切さがわかる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

※ 追記

 

「ですます」調を外すと、私はシンプルな人間だとわかります。

 

「ですます」調に戻すと、私はまどろっこしい人間だとわかります。

 

そのどちらもが私。

 

どちらもがあってお互いに支え合いながら、私自身を構築しています。

 

あえて、「私ってこんな感じ ?」というイメージを一度外してみる。

 

それを深層心理学の言葉では、ペルソナを外す、と言ったりします。

 

ヘルソナ。仮面、という意味。

 

心理学者・ユングの理論です。

 

私は、仮面をつけて生きている。と気づいた時のショック。

 

外せる、とわかった時の歓び。

 

すべての仮面が悪いわけではないけれど、その仮面があることによって、自分自身に対する無条件の愛が感じられなくなってしまうようなら、自分自身の意思で外してしまった方がいい。

 

その自由が私たちにはある、ということです。誰でも。

 

自由。

 

私が大好きな言葉、概念の一つ。

 

自由に生きる。

 

自分を無条件に愛する、ということだと、私の中ではそれが「真理」なのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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