過去の栄光、成功を手放してみたら

今、を輝かせるために、過去の楽しかった想い出、嬉しかった想い出、成功体験、過去の「栄光」を手放せ、という考え方に複数個所で出逢いました。

 

以前も出逢ったことがあるのですが、その時はまだ腑に落ちていなかったのでスルー。

 

ここにきて、なるほど、と腑に落ちたため、トライしてみることに。

 

最初に、成功体験を想い出してみました。

 

すると咳が出て止まらなくなりました。

 

ふと想い出したのは、その成功体験を共にした人との時間の中で、私はかなりの比率で体調不良を起こし、咳をしていた経験があったこと。

 

そうです。今思うと、「成功体験」であり、「歓び体験」のような気がしていたのですが、実際には、いつも咳が出て不快な感情を抱いていたことを想い出したのです。

 

咳。自分の言いたいことを言えない、じくじたる思い。

 

そうなのです。その人といる時、私は本当の自分を表現することができず、その人の枠におさめられていたことをハッキリと想い出したのです。

 

咳はしばらく続きましたが、ある時点ですぅっと消えるかのように。

 

その後、気分がかなり軽くなりました。

 

「成功体験」の手放しはスムーズに進みました。

 

そこでわかったこと。

 

私たちは「成功体験」「歓び体験」など、良い側面だけを覚えていて、実はその時に感じた不快体験は、ハートの奥底に感じないように閉じ込めてしまっている、ということ。逆に言うと、私たちは嫌な想い出はできるだけ感じないようにして、ちょっと楽しかったこと、ちょっと嬉しかったことをことさら大げさにとらえて「あの時はこんなに幸せだった」「こんなにうまくいって夢のようだった」と脚色をして、まるでそれが事実であるかのように思いながら生きていることもあるのだという事実です。

 

青春の想い出はみんな光り輝いています。

 

けれど真実は、誰かにいじめられていやな思いをしたり、仲間外れにされて悔しかったり、美しい片思いなどではなく、ジトジト、ジメジメした感情の片思いだったり。

 

その、不快な部分はまるでなかったことのようにしてしまう。感じなかったか、あるいは感じたけれど事実は封印してしまう。

 

そしてあたかもキラキラした漫画の主人公な面持ちで、「あの頃の自分は結構すごかった」と、まったく別の人生を「想い出」として記憶している。

 

なるほど。

 

だから、嬉しかったり、楽しかったり、幸せだったり、そんな大切な想い出でも手放してしまうと、その時にため込んだ「闇」も流れて行ってくれるんですね。

 

ちなみに、過去の嬉しかったり、楽しかったり、あるいは「成功体験」「栄光」などは手放しても、その記憶自体が消えることはないそうです。その時に感じた意識エネルギーだけがなくなる。

 

例えば、青春の楽しい想い出を手放そうとしたら、忘れかけていた、ものすご~くいやな自分の断片が出てきてしまった、としてもそれを感じてしまえば、自分の中に青春の一ページはちゃんと楽しいものとして残る、ということなのです。そこに「良い」「悪い」の裁きもそのエネルギーも介在しない。

 

ただ「楽しかった」その記憶がそこにある、ということになる。

 

これは、もしかしたらものすごい解放につながるかもしれません。

 

私たちは抑圧し続けた、一見ネガティブだけにフォーカスして、それを自己統合していく、という方向で解放を進めるのが一般的です。

 

この方法だと、楽しかった想い出の裏に隠れてしまった一見ネガティブの存在には気づけないままになります。

 

その場合、もしかしたら拡大解釈をして、脚色しまくった偽りの自分の過去と共に生きることになる。

 

偽りなので、そこには発散されない「負」のエネルギーがあって、いつまでたっても自分の中でくすぶり続ける。

 

けれど、楽しかった想い出そのものを手放していけば、もしそれが等身大の想い出であれば、その記憶はビビッドなまま自分の中に残るし、もしも少し盛ってしまった想い出であれば、そこに加えられた脚色が書き換えられて、それもまた等身大の想い出に生まれ変わる。その場合には新たな想い出が誕生する、という歓びも味わえます。

 

私が成功体験だと思っていた事実は、実は自分を抑え込んだ制限の体験に過ぎなかった。もちろん成功の歓びも少しはあったけれど。

 

体験に良いも悪いもないのですが、そこに等身大の自分があらわれることになります。

 

ということは、自己受容が進む、自尊感情が育まれる。

 

ありのままの自分に向き合うことができる、という大きなプレゼントが届くことになります。

 

「あ~、自分の人生、大したことなかったな」と感じたとしたら、この先、改めて「大した」人生を目指せばいいのです。そこにあるのは、一見落胆ですが、実は大きなチャンスなんですよね。

 

落胆が大きければ大きいほど、チャンスにかける意気込みとパワーが大きくなります。

 

ピンチはチャンス。

 

以前、自己啓発のゴースト・ライターをしている時、この言葉をテーマにした記事は何本も書きました。

 

当時は正直、腑に落ちていなかったけれど、今、わかりました。

 

そうなんです、一見ピンチに思えることは、必ずチャンスの種だということ。

 

過去の成功体験、過去の栄光の洗い出しによって新たな成功体験、栄光が生まれる。

 

それはもしかしたら、過去よりずっと大きいスケールになるかもしれません。

 

その可能性を探るための、過去の手放し。

 

悪くないな、むしろ、おもしろい。

 

想い出の手放しが実は宝探しに直結しているような気がしています。

 

 

 

 

 

 

 

 

※ 追記

 

翌2019/03/28に執筆。

 

私にとっての過去の成功体験とは。

 

人の顔色をうかがい、自分を押し殺し、そのご褒美として少しばかりの名誉と金銭的潤いをいたただくこと。

 

そんなことだったの ?  私の人生の意味は。

 

私は自由に自分らしく生きるために、この命を授かったのではなかったのでしょうか。

 

私の想い描いていた「成功体験」、またはそのイメージがあまりにもチッポケで。でもそれが今までの私の価値観だったんだな、と自分を知ることができました。

 

過去の栄光、あるいは成功体験の手放し。

 

これ、ものすごい「ヒーリング」が起こります。

 

 

 

※ 追々記

 

きょう、やっと今後書きたい本のイメージが具体的にわいて来ました。

 

その手の本を書くには、今までの私はいろいろな意味で不十分だったのだということにも気づきました。

 

過去の栄光や成功体験にとらわれていると、それ以上のイメージがわいてこないものなんですね。

 

今まで漠然と書きたいジャンルやイメージがあったのですが、それが、より鮮明にクッキリと浮かびあがってきてくれたのです。

 

この大きなご褒美こそ、過去の体験の手放しの「成功報酬」なのではないでしょうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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