自己憎悪。
たった今浮かんできた感情です。潜在意識、ですね。
ここのところ、「自己憐憫」「自己嫌悪」「自己抹殺」、さまざまな自己否定の意識概念が浮かびあがってきていました。
これからは、エネルギーとして「重い」。
一般に「ネガティブ」とされるものは「重い」のでしょう。ただし、ネガティブ = いけないもの、ではないので、それらはトコトン感じきることで、光を帯びるようになります。
自己憎悪。
いゃあ、結構ビックリしました。そっか、私は私自身を憎んでいたんだ。
この感情はどうやら過去生から持ち越されたもののようです。身体の左半身がチクチクと痛みます。身体の左半身は私たちの女性性に関する問題に関わり、身体の右半身は男性性に関する問題と関係していると言われています。今回の場合、徹底的なまでに「女性性」への憎悪のようです。
身体の真ん中で、身体が縦真っ二つに引き裂かれる感覚を感じます。
「分離、分断」の痛みでしょうか。
私たちはそもそも一つだったものが、男性と女性とにわけられたと言いますから、その当時の痛みまで蘇っているのかもしれませんね。
そんなことを感じながら、「自己憎悪」のエネルギーを感じつくします。
「私は愛されていない」
「私には愛される価値がない」
そんな自分をトコトン憎む、ということでしょうか。それとも自分自身を憎んでいるから愛など得られない、ということでしょうか。
どちらにしても「愛不在」の自分を感じます。
こういう空虚感、欠乏感は感じてしまった方がいい。
それは、「自己愛の取り戻し」作業の一歩だから。
私たちは「自己愛」を大切にすることのできない生き物です。「自己愛」=「エゴ」ととらえられ、できるだけ「自己愛」に目を向けないように習慣づけられてきたからです。
自分を愛することで、そこから愛の放射が始まります。
自分を愛していない人が「愛して欲しい」と外側に愛を求めても真の愛は得られません。
自分の中に愛がないからです。
自分の中を愛で満たす。その第一歩は、自分自身への愛、自己愛です。
自己愛を遠くに追いやって生きてきてしまったので、私たちは淋しくて仕方ありません。
「愛が足りないよ~、愛して欲しいよ~」
そう泣き叫び、外に外にと目を向けて、ますますこころの中の空虚感を膨らましてしまう。
そこから抜け出す第一歩として、自分を愛することを阻んでいる対極の感情を感じつくす。
それらの、対極の感情はいわば愛をアタックする存在。無視しようとすると、自分の存在をアピールするためにどんどん力を強くしてきます。
一旦、受け容れる。「あなたはそこにいてくれたのね」と。
すると自己主張の必要がなくなるので、むやみやたらに暴れまくることもなくなります。
その一連の流れのシメがもしかしたら「自己憎悪」なのかもしれません。
ゴールに向かうアンカーですね。ラストスパート、がんばってもらいたい。
なぁんて思いながら、まだ他にもあるかもしれません、「自己否定」につながる感情。
何かが出てきたらしっかり受け止める。その心構えはあるけれど、まぁまぁ、本当にいろいろな感情があるものだわ、と感心してしまいます。
自己憎悪という感情が自分の中にあると、誰かを憎んだり、憎しみの対象を引き寄せたり、と自分の中で「憎しみ」を増幅させるような機会を育んでしまうようになります。
愛と同じ。自分の中に愛があるから愛を引き寄せられる。憎しみがあれば憎しみを引き寄せる。
ただし、「憎しみ」はいけないものでも不要なものでもありません。必要だから存在している感情です。
憎しみがあることを知っているから、愛の奥行が増すのです。
人は愛を得られないと、自分を憎むようになります。自分への憎しみを認めてあげないと憎しみが暴走し始めます。憎しみと適切な関係を築くためには、憎しみも愛と同列だとそのポジションを作ってあげることが大切です。
その気持ちこそが、愛。そう、憎しみは愛を引き出すためのパートナーでもあるわけです。
私たちは一つの何かへと統合するために、分離、分断、のプロセスを経ています。分離、分断の痛みを知るから、統合の歓びが大きくなるのです。
一見複雑、一見シンプル。
頭で理解するのは簡単なのに、なぜかハートは追いつかない。
それも私たちが一つの何かになるための素材の一つなのかもしれませんね。
※ 追記
きょう「26日」は、あちら在住、愛猫・海・かいとこちら在住、愛猫・海・うみの「月誕生日」です。毎月この日には、ビッグな贈り物が届きます。
今回は「自己憎悪」の解放、というプレゼントでした。
「自己憎悪」はどうやら集合意識のようです。そのウエイトはかなりのもの。それを感じつくすと同じ分だけ自分が軽くなります。
感じてしまった方がお得なのです。
上記本文エッセイを打ち込んでいた時、「そこ」と打っただけなのに「そ孤」と変換されてしまいました。
「孤」は「きつね」でもありますが、「孤独」の「孤」でもあります。
「孤独感」「孤立感」の解放、の意味があるのかな。
そう言えば、きのうからある友人のことが思い浮かんでいました。その人には動物霊がついている感覚を感じていました。その人との関係が私の中でクリアになり、その人と同調する必要はなくなった、お互いにお互いの道で幸せになればいいのだわ、と思った後の「自己憎悪」のあぶり出しでした。
そこに「狐」の文字のあらわれ。
なるほど。その人についていたかもしれない動物霊は「狐」。淋しくて仕方なかったのでしょうね、彼女は。
同時に私も淋しくて仕方なかった。
お互いの「孤独感」「孤立感」も解放された。
お互い自由になれた。
そんなストーリーが浮かびました。
「自己憎悪」
かなりヘビーなエネルギーでしたが、感じられてよかった。
Lucky ! です。
動物霊は動物君の幽霊ではありません。気になる場合は、お調べいただくとおもしろいかもしれません。