季節的なものなのか、ものすごい喪失感につながってしまいました。
喪失感。私はおそらくこれを抑圧しています。
小さい時の喪失体験。けれど思い切り泣くことができなくて、その後どんどん感情にフタをする癖がついてしまった。
喪失感は虚無感に変わります。虚無感はとてつもない淋しさに変わります。
そして淋しさは、それをもたらした存在への憎しみへと変わる。
けれど、それは亡くなった存在を愛する気持ちが強いから。感受性が豊かだからに過ぎません。
この一連の感情を一切の裁きをせずに全部感じつくすことにしました。
感じても感じても止まらないのです。
そして胸の痛みが起こります。しばらく感じていると、どうやら乳がんで乳房を取る手術をした女性の集合想念のようです。
そう。
最初は個人的に喪失感を感じていたのですが、いつになってもなくならないところをみると、完ぺきに集合意識につながってしまった様子です。
喪失感。
例えば家族とのお別れ、ペットとのお別れ、大切な友達とのお別れ。
また女性は、出産をしてお腹に赤ちゃんがいなくなったことでとてつもない喪失感に襲われる。
おそらく、子育てを終えた女性が燃え尽きてしまって感じる「空の巣症候群」なども大きな喪失感につながるでしょう。
手術などで大切な臓器をとっても、喪失感は生じますね。
災害などで、今まで住んでいたお家を失う。故郷を失う。
誰でも年を取りますから、若さも失う。それに伴い健康や生活への安心感も減るかもしれません。
それこそ、喪失感は24時間フル稼働で働いているのではないでしょうか。
特にこの季節は卒業のシーズンです。誰もが喪失感を感じています。
それら多くの集合意識とつながり、私の中の喪失感はMax。大げさに言うとエンドレスに近い状態でした。
喪失感を感じているうちに、頭頂部のエネルギー・センターにしびれを感じ始めたので、一旦終了。ヨーガの概念でいうとクラウン・チャクラ。下から上がってきたエネルギーがクラウン・チャクラを通過した模様です。
考えてみれば、このエッセイを執筆しているこの瞬間も、きっとどこかで誰かが亡くなり、ご家族やお友達は深い悲しみに襲われ、やがて喪失感の真っただ中に入っていくのですよね。
みんながみんな喪失感をその時にしっかりと感じられるとは限りません。
私のように感情にフタをする癖のついている人は、喪失感を何度も何度も抑圧しているので、この世界から喪失感がなくなることはありません。むしろ増える一方です。
私はきょう、何とか自分で喪失感のフタをあけて感じることができました。逆シャワーのようにものすごい勢いで喪失感のエネルギーが出ていくことを感じました。
日本では、男性は哀しくても涙を見せるな、という教育がなされてきました。今はどうなんでしょう ? たとえ女性であっても、「いつまでメソメソしているの ? 」と周囲から心ない言葉をかけられ続けたら ? その言葉をかけている人自身が喪失感を抑圧してきたことはまちがいありません。
喪失感は誰にでもある感情。その感じ方は人それぞれです。その昇華の仕方もそれぞれです。
みんな同じ、で片づけられるものではありません。ここまで感じたらもうおしまい、と線を引けるものではないのです。
喪失感に限らず、我慢を強いられた人々は、さまざまな感情を押し殺して生きなければなりません。
そして突然キレるのです。
あの真面目そうな人がなぜ ?
なぜあの人はそんな大変な病気になったの ?
中には突然この世を去る場合もあります。
抑圧の力は、眼に視えないものだけに、とてつもない勢いで膨れあがってしまうことが少なくありません。
きょう、「喪失感」を感じていてわかりました。
日本人には「喪失感」を自然に流していくためのサポーターが必要だということに。
我慢が美徳という文化の良いところも悪いところも受け容れて、しっかりと感情を解放していく方法を創るべき時がきているように感じます。
私のヒーリングとカウンセリングで、それらのお手伝いをさせてもらうことも一つの方法でしょう。
そのためには自分自身がしっかりと「喪失感」を感じなければならなかった。そのためのきょう、だったようです。
喪失感を感じれば、同時に獲得感を得られます。
息を吐いたら自然に息が入ってくるのと同じ。
まず吐き出しが先。そう、喪失感を感じなければ、出逢いの歓びも存分に味わうことができません。
喪失感を受け容れる。感じる。
個人レベルでできるようだったら、どんな方法でも平気なので感じきってみてはいかがでしょう。
喪失感に居場所を創るのです、追いやるのではなく。
流すのです、滞留させるのではなく。
私は喪失感を感じたことで、自分への信頼が戻ってきました。
私のすることで、私の存在によって、お役に立てることはまだまだある、と。
今、執筆の最中、ハートにものすごい勢いでエネルギーが流れ込んでくれています。それだけ多くの喪失感が私を通り抜けて行ってくれたという証拠なのかもしれません。