孤独感を先に感じていました。
さらに孤立感、そして疎外感。
疎外感とは、誰かに疎まれたり排除されたりする感覚のことだそうです。
疎外感というのは、今まで浮かんできたことがない感情。感じているうちにこころがポカポカしてきて、ホッとしている自分がいたので、こころの奥底に閉じ込め続けてきたものなのかもしれません。
キッカケは、ノドのチャクラのヒーリングです。
チャクラとはインドのヨーガの伝統による、体内のエネルギー・センターのこと。ノドのチャクラはコミュニケーションに関係していて、また人間関係のトラウマなどもたまりやすいチャクラとのこと。
私は幼い頃に扁桃腺をとっていて、ノドのチャクラはつまりやすい方です。病院では、何か不具合が出ると「取ってしまう」という判断がなされることが多いのですが、実際にはどんな臓器でも役割があってのものなので、本来は取るべきではない、という考え方を知ったのは成人してからのことでした。
取ってしまったものは仕方ない。その状態と折り合いをつけていくしかありません。
ノドのチャクラはコミュニケーションと関係が深いのに、皮肉なものですね。物書きの私のノドのチャクラが本来の働きをしてくれていないなんて。
そこでヒーリングです。時間を取って丁寧にヒーリングを行いました。
孤独感、孤立感、疎外感、と人間関係に関する概念、感覚が次々に浮かんできました。
疎外感は仲間外れ、ともつながりました。
自分の居場所がない感覚。
例えば家族でいたとしても、自分だけがそこから疎外されてしまっている感じです。
そのまま疎外感を感じ続けていたら、今度は集合意識らしいものにつながってしまいました。
女性の、疎外感です。
女性は結婚して、相手の家に嫁ぐと、必ずと言えるほど疎外感を感じます。他の人はみんな血がつながっているのに、自分だけ他人、という疎外感。潜在意識の部分ですね、顕在意識ではなく。
そして例えば子どもを授かり、その子どもが結婚したとします。嫁だった立場の女性が母親になり、今度は姑になる。すると、今度は婿、あるいは嫁の立場の人があらわれて、子どもを奪われてしまった感覚になり、またまた疎外感が膨らみます。一方、婿、嫁の立場の人もまたそこで疎外感を感じる。
なるほど、家族というのは、お互いがお互いの立場で疎外感を感じ合っている集合体なんだ、と気づきました。
さらに感じたのは、男性側の疎外感。結婚して、奥さんを迎え、奥さんが実の母と仲良くなってしまった場合。また子どもを授かって、奥さんと子どもの関係が深くなり、自分は置き去りにされてしまう感覚。こちらもエンドレスでその感覚が続きます。
ということは、家族において「疎外感」という感情は、往々にしてお互いに誰かに投影し続けている可能性がある、ということではないでしょうか。
たとえ少人数であっても何かの集団、グループがあれば、必ず、誰かが疎外感を感じている。
人がつるむのは、その疎外感を感じたくないから、抑圧してしまいたいからなのではないか、と。
「疎外感」について調べてみたら、「人から排除されている時に感じる感覚」ともありました。
つまり、自分が自分を排除しているからこそ、疎外感を感じ、またその疎外感を誰かに投影し続けてしまうようなのです。
ということは、「排除」「疎外」そのものの感情を感じつくすことが大切だということになりませんか。
まず、自分自身が自分を疎み、排除している、という事実を受け容れる。
誰かが、ではなく自分が、であるという事実。
人はみんな淋しがり屋です。淋しいよ~、淋しいよ~とこころの中で叫んでいます。その大元に「自分への疎み」「自己排除」の意識があったなんて。
そりゃあ、淋しいはずですよね。
自分で自分を「あっちに行け」と言ってるわけですから。
まったくの自己かい離。
まったくのドМ。
どうして私たちはこんなにも複雑に創られているんでしょう ?
いえ、実はかなりシンプルで逆説の理論があるだけではないかな、と感じています。
自分が大好きで、自分がとっても大切で、ともすれば忘れてしまいがちなその真実に気づくために、一度、自分をあっちに追いやっているんです。
あっちに追いやるからこそ、自分の大切さ、愛おしさが身に染みてわかる。
人との関係で考えてみましょうか。
あなたにとって、とても大切な人がいます。でもその大切さに慣れて、お相手に対して、優しい言葉をかけたり、優しい気持ちを感じたり、を忘れてしまいます。
すると大切なその人は、あなたから離れていきます。あなたに疎まれたと感じるからです。
その人がいなくなってはじめて気づくのです。そのお相手が自分にとってかけがいのない存在だったことに。大切で愛おしい存在だったことに。
そしてそのお相手こそが実は自分自身だったことに。
人間関係の問題は、自分自身との関係が映し出されているに過ぎないというのが深層心理学などでの定説です。
誰かとの間に壁をつくっているようなら、それは自分自身への壁であるということ。
誰かを敵視しているようなら、それは自分自身への敵対心であるということ。
誰かを無視したいと感じているようなら、それは自分を無視したいという気持ちだということ。
誰かをこころから愛することができているようなら、それは自分自身への愛のあらわれであるということ。
シンプルなこの法則がなぜか、複雑な課題へと変わってしまうところが、私たちの悩みの種、なんですね、きっと。それは同時に楽しみの種でもあるのかもしれません。
さらに感じたのは、確かに自分自身への壁は、いつもいつもだと困り者。でももしかしたらその壁の存在で自分が救われることもあるのかもしれない。
壁 = 悪いこと、と思いすぎる必要はないのではないでしょうか。
人間には自己防衛本能が備わっています。自分に危機が迫ってきた時は、自分自身でそこから脱しようとする力が備わっている。
それを「過度」に使うのではなく、ほどほどだったらどうでしょう ? 生きていくためのツールを自分自身の意思で上手に使い分ける。そんな可能性もあるのかもしれませんよね。
こんな風に「疎外感」を感じきったら、さまざまなストーリーが思い浮かんできてくれました。
私が扁桃腺を切ったのは、魂的には自作自演です。コミュニケーション・チャクラがあえて機能しないように、自分の魂がそう選択したのです。
コミュニケーションには、言語による人とのコミュニケーションがありますが、さらに内なる自分と外なる自分のつながり、という側面もあって、そのつながりがスムーズな場合は、人生もスムーズに流れるものなんだとか。さまざまなアクシデントを楽しむ人生を選択している場合、コミュニケーション・チャクラに「難あり」という状況を創り出すんだろうな、と自己分析、です。
私の場合、きっとそれ。内なる自分と外なる自分とのつながりを一旦断つ、という選択が、現象的には「扁桃腺を取ってしまう」というものとなってあらわれた。
その真の目的は、内なる自分と外なる自分をつなげるプロセスをトコトン楽しみたかったから。一旦つながりを断った方が、つながりを修復するのに大きな力が生まれるから。その、大きな力を体感する歓びを味わいたかったから。
またまた、私独自のストーリーの誕生です。
こうやって私は自分の人生においての創造性を思い切り楽しむタイプ。
ノドのチャクラは、実は創造性を司るチャクラでもあるのです。
ノドのチャクラが不安定なのは、人のせい、ではなく、私自身の選択だった、ということがはじめてストンと腑に落ちました。
人間関係は自分自身との関係、そのことの証明なのかもしれません。
※ 追記
当エッセイは、執筆2019/03/20。どうしてもアップできず、加筆してアップは翌03/21になりました。
きょうは春分の日。宇宙の元旦。
生まれ変わりの日。なのかもしれないですね。再誕生の日。内なる私と外なる私の和合によって。
これを読んでくださっているあなたにとっても。
※ 追々記
「ウザい」
近年、いたるところで耳にするこの言葉。
その大元に、その人自身の疎外感があるということではないでしょうか。
「あっち行け」
自分自身の追い出しをしている気持ちがいっぱいいっぱいになってあふれ出し、それが他者への「ウザい」になっているような気がします。
ということは、大人がまず、自分自身の疎外感を受け容れることが大切なのかもしれませんね。
自分自身を疎ましいと感じている事実。自分自身を排除しようとしている事実。
虐待行為の犯罪化による戒めや、道徳の授業などだけでは、虐待やいじめの根本解決にはつながらないのではないでしょうか。もちろんそれらが有効に作用する範囲もあると思いますが大元の心理メカニズムを解明し、それを一つ一つ自分自身の中に落とし込んでいく。
少なくとも深層心理学の存在意義がそこにあることを感じました。
この手の大きな問題は、さまざまな方面からのアプローチが必要です。
餅は餅屋。自分の得意ジャンルをもちよって、みんなで大きな何かを創造していけばいいのですね。
融和、融合、和合の現実的な道筋が視えてきました。
年号が変わるのもそろそろです。
新時代の創造。一歩ずつ。