物質主義。精神主義。
あなたはどちらに傾いていますか。
私は長い間、精神主義に傾いていたような気がします。
物質的豊かさより精神的豊かさ、というように。
冷静になって考えてみると、精神主義は、アンチ物質主義であって、その実、物質至上主義の側面があるのではないかと感じました。
物質ばかりにこだわってはいけないよ、こころの豊かさを忘れないようにしないとね。
長い間、そういう意識の中に閉じ込められていたような気がします。
そっか、物質にこだわることはいけないことなんだ、恥ずかしいことなんだ、と。
そして、物欲の強い自分を抑え込んで、何かが欲しいな、と思うと、「ダメダメ、そんなに、ものばかり欲しがっちゃだめだよ。ものにあふれているじゃない ?」と頭を抑え込む。
でも欲しいものは欲しい。だからその抑圧は強くなる一方で、ついに「こんなにモノが欲しいのに何で我慢しなくちゃいけないの ?」、自分の中でその想いがMaxになっていた時があるのかもしれません。
物質至上主義とは、モノこそに価値があるという意識です。それ以外のものは不要と。
本来、物質主義と精神主義は、どちらもあって、ほどほど加減が良いはずなのに、物質主義をダメ、としすぎて、かえって物質主義を膨らませ、結果としてそれが物質至上主義につながってしまうだろうことを感じました。
同様に拝金主義。今の世の中、お金がなくては生きてはいけません。お金に頼らないで生きていけるコミューンはどれだけ存在するのでしょう ?
ことの是非ではなく、現実的に普通に生きていれば、お金があればできること、お金がなくてできないことが出てくるのは当然のことです。
そのお金に対して「いけない」とか「恥ずかしい」とか「汚い」などと思いすぎることはお金へのマイナス面への執着を膨らませることになりますから、抑圧が大きければ大きいほど、拝金主義を強めているのと同じなのかもしれません。
自分が「物質至上主義」であり、「拝金主義」でもあったかもしれないという事実は、今まで思ったこともない事実の一つです。
けれど両極の世界、二元性の世界を受け容れるのなら、精神主義が強ければ強いほどそれと同じだけ物質主義も強くなる、という事実に気づけます。
それに伴い、お金に対して無頓着を装っていても、もしも万が一、少しでも「お金、お金というのは恥ずかしいことだよ」と感じていたのなら、それと同じだけ「お金が大切。お金がすべて」という意識をもっていた事実にもつながります。
モノゴトの両方をみることではじめてバランスがとれるのであって、どちらか一方だけを視て、片方の一方をないものとすれば、アンバランスはますます強くなっていきます。天秤を視ればわかりますね、片方だけに何かが乗っていたら、たとえそれが一見「良い」ものでも、天秤自体のバランスは大きく偏ってしまうことになります。
光と影。
光と闇。
陽と陰。
表現の仕方はさまざまでも、影を含んでの光、闇を含んでの光、陰を含んでの陽、という、これらの両極性を見極めていくことで、より調和に近いものが視えてくるのではないでしょうか。
言葉として、嫌な気分になるものこそ、実は自分そのもの、自分の中に隠し持っている真実であることが最近わかり始めました。
物質至上主義も拝金主義も、おそらく誰にでもある要素です。
この存在を受け容れたところで自分の価値が下がるということはありません。むしろ、自己統合が進むので、自分の柱が太くなります。
物質とお金はつながった価値観ですから、それらを自分の中に落とし込めば、今まで安定しなかった「精神主義」がより、しっかりしたものとなって自分の中に根付きます。
物質主義と精神主義。
肉体を持つ人間であれば、誰にでも備わっているもの。誰にでも必要なもの。それに「優劣」「善悪」の判断をつけることの方がアンバランスを生みやすくしてしまうものなのかもしれません。ここでのアンバランスとは、意識エネルギーのアンバランスです。
※ 追記
「0」のぞろ目。5桁だったか6桁だったか。
当エッセイ執筆前にパソコンが突然フリーズして、私のブログのアクセス数が「0」のぞろ目表示に変わりました。
「0」の意味を調べたところ、「0」とは「無」の意味だけれど、「無」は何もないという意味ではなく、「無限大」へのスタート地点、という意味なんだとか。
リセット、同時にスタートの意味なのかな、と感じました。
スタートの前に、私は今までの大きなお荷物、「物質至上主義」「拝金主義」を手放せたような気がしたのです。正しくは「拒絶、排除」しようとしていたものが「受け容れられた」。
ある人から届いたメールに「新天地」の文字がありました。
「0」には、過去の時代の浄化、大掃除という意味と同時に、再生、新たな時代の誕生、そして「起点」という意味があるのかもしれないですね。