ここ数週間、医療関係の書籍を数冊手にしていました。
熟読したものもあれば、斜め読みのものもあり。
正確に言うのなら「医学関連」といった方がいいかもしれません。
そこで数々の事実がわかってきたのですが、私の思う「事実」と世間一般の常識はたいていの場合、大きな隔たりがあることがわかりました。
そのことに密かに安堵を感じています。
モノゴトには必ず二つの側面があって、表があれば裏もある。そのどちらを自分にとっての事実とするのかは、私たちの人生の課題、あるいは潜在意識の偏りによって変わってきます。
どちらもが正解であると同時にどちらもが誤りである、ということが感覚的に視えてきました。決して私が一方的にまちがえているわけではないということ。数の理論でいうと、私はまちがいなくマイノリティーでしょう。視方を変えると、数だけに絶対的価値を置いた考えとは違う世界に生きている、ということなのかもしれませんよね。
さて、私の行っている「ヒーリング」について、科学的根拠に近いものをアメリカの医師が数十年前に発表していることがわかりました。もちろん日本でもその事実を書籍で確認できます。
その書籍は大分前に買っていたのですが内容があまりにもむずかしくて読めなかったものです。他の医療関係の書籍はほとんど処分していたのに、なぜかこれだけが手元に残っていました。
Amazonで購入したい本を探していた時に突然目に飛び込んできたので、「あれ ? もしかして家にあったかも」、そう思ってページを開いてみて、その瞬間、感激をまじえた驚きに包まれました。
ヒーリング、というと、うさん臭いとか、オカルトとか、さまざまな人がさまざまな捉え方をするわけですが、それはそれで仕方のないことでしょう。人の理解の幅は、それこそ人それぞれですから。
私の場合、突然その力が開花してしまったので、それらしき師もいないまま施術にあたっていました。結果として、少なくともその時点で「プラス」の評価をいただけるような施術しかしたことがないので、私にとって「ヒーリング」は決して人々を苦しめるためのツールではない、との確信はもっていました。
ところがそのメカニズムや科学的効力というと、言葉では説明しきれないところもあって、その部分は悩みの種でもありました。
その悩みの種を何十年も前に、医師の立場の人が明確に解き明かしてくれていたのです。
「あぁ、良かった」
私のしてきたことはまちがいではなかった。私のしてきたことは理にかなったことだった。
その内容についてはまた別の機会にお話させてもらいます。
一つ言えるのは、少なくとも私の行っている遠隔ヒーリングは、まやかしでもなんでもない、という事実を、科学者たちは、昔から真剣に研究し続けていたのです。なぜ、日本では、この手の情報が拡がらないのか、よくわかりません。イギリスなどではヒーリングは保険対象であるというのに。
さらに、エネルギーについて調べてみたら、おそらくかなりの数の代替医療従事者が目にしているだろう書籍の存在が浮かびあがってきました。
その内容をさぁっと追いかけるだけで、「こういうことだったんだ !」と思わずひざを打つ感覚です。
すべての答え合わせは、先人たちの書籍によって行われました。
それらの書籍をたまたま手元に引き寄せていたのか、それとも書籍の方がやってきてくれたのか。人によってとらえ方はそれぞれですね。
ところが。
それらの書籍内容を読み深めていくと、正直頭でっかちになりそうな、ものすごい違和感が膨らんでくるのです。つまり、「理詰め」の世界、知識優先の世界。そう、男性性優位の世界です。確かに理にはかなっているけれど、ここまで明確にされると、それはそれで何かの制限を受けてしまうといった感覚です。
なるほどね、とわかったのは、私はたいていのことは、「実践」が先。その実践にお手本はほとんど存在しません。自分の中に浮かびあがってくるナニモノかの指令、指導にそって何かを実践させられる。すると何年か経って、先人の残してくれた書籍がなぜか私の目の前に現れてきて、そこに答えがすべてつまっている、というプロセスをたどっているのです。
例えばヒーリングもそうです。理論は学んでいません。その活用法についても、直感、直観で判断しています。
ということは、私は元々、動物的とも言える本能部分で何かを実践していることがほとんどだということです。そう、完全なる右脳派です。そして、あとからきちんと左脳が答え合わせをしてくれる。
これは発達心理学の研究でいわれる、先に女性性の発達、その後に男性性の発達、という事実と重なっていることがわかります。私の中では、女性性と男性性の関係は、その点においてはスムーズに育まれていたということではないでしょうか。
もしこれが男性性が先、つまり理論が先だったら、ここまで自然に女性性が働いてくれたかどうかは、私に限っていうとむずかしい。直感が先だったからこういう流れができたのかもしれません。
理屈が先であった場合、その理屈が立派すぎて、私の場合は、「自分はすごい人間なんだ。こんなすごいことが理解できているんだから」と、自分を過大評価してしまったのではないかと感じました。
実のところ私の場合まったく逆で、「これでいいんだろうか、できちゃったけど」「これはまちがってはいないのかしら。誰にも聞けないけれど」といった、いわば過小評価から始まっていたので、決して自分を「すごいんだ」と思わなかった、ある意味抑止力が働いてくれたような気がします。
過小評価は、たいていの場合、あまり良い意味では使われません。でもこういう場合は、「抑え」の意味でそこそこプラスの意味を持って作用してくれていたのかもしれません。
誤解のないようにお伝えすると、ヒーリングそのものに自信がなかったわけではありません。自信がないのに、いきなり遠隔ヒーリングって、そこまで無謀ではありませんし、そこまで安易でもありません。ただ、その仕組みが明確ではなかったので、人に説明するための根拠探しに苦労していたということです。
ヒーリングは、それ自体を信頼できる場合にのみ、効果的に作用することが期待できる、という性質のものです。
他の手法やメソッドは私にはわかりませんが、自分の行うヒーリングにはそれ相応の作用が期待できる、ということを心底応援してくれる心強い仲間が、目の前にあらわれてきてくれた気分です。
今までの私に足らなかったのは、自分自身への「絶対的信頼」だったということもわかりました。今、信頼の瞬間・ときがきたという事実も同時に視えてきました。
女性性と男性性のハーモニックな関係が育まれた時、私たちの中の力が本領発揮となる、というメッセージなのかもしれませんね、この一連の流れは。
ヒーリングとは、本来、治療や治癒の意味で使われるものではないと私は捉えています。さらに言うのならすべての「治療行為」についても、ですが、ここを説明すると長くなってしまうので、それはまた別の機会に。
その人の真ん中の力にスイッチがはいるためのお手伝い、あくまでもそこまでです。何かを治す、というのは、その状態が良くないことだと認識していることに他なりません。「治す」のではなく、「本来の力を想い出してもらい、それに信頼を寄せてもらうためのサポートの一つ」ということです。
自分自身のことに置き換えれば、私は今回の「ヒーリング」がらみの事実によって、自分自身への信頼を取り戻すことができた、女性性と男性性の統合が進んだことを確認できた、そのこと自体が私に起きた「癒し」です。
病気によるさまざまな症状やこころの歪みは、誰かが「治す」、誰かに「治される」ためにあらわれているのではないということ。自分自身が真ん中に戻る決意をするためのアラーム、愛のメッセージに他なりません。
そしてそれを「癒す」のは、自分自身への信頼と自己愛です。そのための外からの応援ツールの一つ、それが「ヒーリング」の本来の姿。この解釈もおそらく一般的解釈とは異なるものではないでしょうか。
いずれにしてもヒーラーとしての活動に疑問を抱いた時期もありましたが、まちがいなく、ヒーラーもまた私の使命の一つだとわかりました。
ちなみに「ヒーリング」能力自体は、誰にでも備わっているものとされています。ヒーリングができるからと言って、選ばれし人ということはありません。ただし、その人によって使えるエネルギーの「周波数」が異なるらしいので、ヒーラーには、自己統合のプロセスはまちがいなく最重要項目だということです。どんな職業であれ、人間性が求められるのと同じ理屈ですね。ヒーラーの場合は、直接エネルギーを扱うのでなおさら、ということなのでしょう。
個人的にそのことを理解し、自己統合を進めてもきました。それが適切な理解と実践であったことを、一冊の本が証明してくれました。
私にとって、書籍は人生の大切なパートナーであることがさらに明確になりました。これも大きな意味での「癒し」効果なのかもしれません。
当エッセイ執筆を終えた今、全身にエネルギーがサワサワと流れてくれています。
優しい流れ。
そう言えば、私のヒーリング・エネルギーはとても優しい、と言ってくださるクライアントさまがほとんどです。もしかして、執筆と同時にセルフ・ヒーリングが始まってしまったのかもしれませんね。
※ 追記
ヒーリングを始めた時に、複数のヒーラーさんにいくつかの質問を投げかけたことがあります。当時、ほとんどの人が「わからない」と答えました。
その時に抱いた疑問がすべて、今回の本でクリアになりました。
頭で考えるより、まず、実践、ということだったのでしょうか。
暗がりの中で必死にもがきながら進んできたので、メンタリティも鍛えてもらえたような気がします。
ダブルでのプレゼントをもらっていたみたいですね。あちらからの応援は時に厳しく、その実深い愛で覆われているということなのかもしれません。
当エッセイでは「ヒーリング」に限定したお話になりましたが、私の中で「医学」全般に対する独自の考え方がまとまりつつあります。
これもまた私にとっての一つの「ヒーリング」なのでしょう。