「憎しみ」「憎悪」
この文字を視ただけで嫌悪感を感じる場合があるかもしれませんね。
嫌悪感を感じたとしたら、それは自分の中の「憎しみ」や「憎悪」をいけないものとして、自分自身の奥の方におしこめてしまっているからではないでしょうか。
抑圧、です。人の意識って、それなりに複雑な仕組みになっているものなのかもしれません。
私たちは、自分が感じたくない不快な意識は「ないもの」として扱いたがる生き物です。
自分には憎しみや憎悪なんて感情はまったくないわ、と。
憎しみや憎悪はいけないものとの刷り込みがなされているためです。
もちろん、いつもいつも「憎しみ」の感情に包まれていたら、それはいけない、というよりも自分自身がつらくなることはわかります。
では、本当に「憎しみ」の感情がゼロかと言ったら。
あなたは今までに一度も「あの人のことが憎い」と感じたことがありませんか。
私は、あえて「憎い」と思わなかったけれど、「嫌なヤツ」とか「むかつく」みたいな感情はたくさん抱いてきました。あえて「憎い」と思わなかったのは、もしかしたら「憎しみを抱くなんて人として良くないことだから」と意識的に自分をコントロールしていたためかもしれません。
ある本を読んでいたら、驚くようなことが書かれていました。
私たちはたいていの場合、同性の親を憎んでいるものだ、と。その原因は、愛を強く欲するあまり、その愛が与えられないと、愛を与えてくれない相手に強い憎しみを感じてしまうことによる。同時に愛を与えられなかった自分自身のことも憎む。
そんな主旨の話です。
これだけではお話は伝わりにくいかと思いますが、前後の流れから、私はそっか、とすんなりハートに響いてしまいました。
さらに、憎しみを感じる人というのは感受性の強い人だ。そもそも鈍感であれば憎しみを感じることもない、ということも書かれていました。
感受性というのは、何かをキャッチする力ですよね。
感受性が強い人は、愛をキャッチする力が強い。同時にその反対の意識、例えば憎しみ、不安、恐れ、妬み、そねみ、など一般的に「ネガティブ」と言われる意識もキャッチしやすくなるということでしょう。
これは、光と影の法則。あるいは山と谷の法則と呼ばれるもの。この世の中は、光だけではなく同時に影や闇が成立します。陰と陽、という言葉もあります。両極性と言って、エネルギーの真逆のものがお互いにお互いを補完し合いながら成立している、という考え方です。
男と女。これも広い意味で言えば、両極性。
愛の反意語は、マザー・テレサは「無関心」という表現をしています。一般的には「恐れ」が愛の対極だと言われています。「憎しみ」も大きな意味で愛の反意語ととらえられるのではないでしょうか。
とすると、感受性が強いから、つまりハートの感覚が敏感だから、愛を望む一方、その愛が得られなかったことに対する失望感が大きく、それは時に絶望感につながり、その気持ちは相手を憎いと思う気持ちにつながる、という流れが視えてきます。
自分と同性の親、としているのは、この本の著者のカウンセリング現場での傾向をみて、とのこと。
ここまでの話をみて納得が行かない、理解できない、という人も出てくるのではないでしょうか。私は個人的に腑に落ちてしまったので、その流れの先に、「母との間でどんな確執があったのだろう」「私は何に対して絶望感を感じたのだろう」といくつもの可能性を一つ一つあぶり出しました。そのうち、「確かに母を憎んでいたのかもしれない」という気持ちが強くなってきました。不思議なものです。
そこで感じきりました、母への憎しみ、憎悪のエネルギーを。
するとさらにわかってきたのは、母もまた私を憎んでいたのだろう、という感覚です。
すべて「無意識」の中のことですから、明確に「絶対、憎んでいた、憎まれていた」という情景が浮かんでくるわけではありません。ただ、考えてみれば、これはこういうことだったんだろう、その時の母の気持ちはもしかしたらこういうことだったのかもしれない、と探り探りでの作業です。
はじめは「嫌な作業だな」と感じていましたが、そのうち、スルスルスルスルと何かが流れ出しので、「憎しみ」「憎悪」を感じきった後は、かなりの爽快感でした。
母が生きていれば一緒にやると、より効果らしいのですが、私の場合、母は亡くなっていますので、私の意識の中で母の気持ちを感じながら、という手法を取りました。
やり終えた後、母もつらかったんだな、大変だったんだな、と素直にそう感じることができました。
私は、感受性が強いのです、それはまちがいありません。
きっと鈍感なタイプだったら気づかないようなことに気づいてしまったし、その大元で、私は強い愛を欲していたはずです。自分への期待と同時に母への期待も大きかったのでしょう。
その結果、その期待に応えられなかった、応えてくれなかった、というその都度の「哀しみ」は大きかったのかもしれません。しかも、そんな自分を感じたくないものだから、どんどん「哀しみ」を抑圧して。その「哀しみ」は「怒り」になり、知らないうちに「憎しみ」へと変わり、そんな素振りはこれっぽっちもみせないで母と接していたのですから、お互いにストレスだったのではないでしょうか。
母が生きている時には、まったく気づけなかったことばかりです。
私には時間が必要だったみたい。今じゃないと、理解できなかった。
でも、「憎しみ」「憎悪」があるから、私は自分が感受性の強いハートをもっていると再認識できました。同時に、ネガティブも感じやすいけれどポジティブも感じやすい、人間らしいハートの持ち主だともわかりました。
平易でいつもフラットな感情を保てている穏やかな人は、もしかしたら鈍感な場合もあるということ。
どちらが良いとか悪いとか、ではなく、やはり個性はそれぞれで、私は感受性が、強い、ということを自覚していれば、ネガティブが強くなった時も「あぁ、今はバランスが崩れているのね」と自分に向き合うチャンスがきていることを感じ取れるはずです。
もともと私はアップ・ダウンの激しい性格で、今は大分おさまりつつありますが、アップ・ダウンが激しいこと= 良くないこと、と思いすぎる必要もなく、大きなネガティブの後に、大きなポジティブを受け取れる、ある意味お得なタイプなのかもしれない、と思うと、それはそれで楽しくなります。
「憎しみ」「憎悪」をたくさん感じたので、この後はそれらを抑圧する傾向も弱まるでしょう。今までは抑圧していたのでいろいろなところでフツフツと怒りがわいたりしたわけですから。
「憎しみ」「憎悪」ちゃんに「ありがとう」。
母の姿、母との関係、あるがままに受け容れることができました。お互いの間に「憎しみ」の相関感情があったことは、まったく想定外のこと。
でもちゃんと自分たちの感情の流れを知ることができて、大きな収穫だったと、こころからそう思うことができました。
私たち女性にとって「母」とは最初に出逢う絶対的存在であるがゆえに、それに対する期待は相当なもの。反面、裏切られたと感じた時、応えてくれなかったと失望する時の絶望感は半端ではないのだ、ということがわかりました。
さらにその絶望感が大きければ大きいほど、私たちは大きな愛の取り戻し作業を行えるのです。
憎しみがなければ、その作業も行えない。
一見「負」があるから、大きな「正」が感じられるのです。
※ 追記
当エッセイはなかなか筆が進みませんでした。それだけ大切なことを書かされている、ということかもしれません。
さて、本文中の、ある本とは、『ガン 希望の書』リズ・ブルボー著、のことです。リズはカナダ生まれのカウンセラーです。カウンセラーという表現が良いのか、自己啓発家と言えば良いのか。いずれにしてもリズの本は各国で空前のベスト・セラーになっているとのこと。
リズの本と最初に出逢ったのは、10年ほど前。当時は理解できないところもあったのですが、なぜか彼女の著書はすべて読んでいます。リズ信奉ではありません、ただ日本にはなかなかないタイプの本ばかりだから、というのが正しいところでしょうか。
10年前には理解できなかったことがやっと今、少しだけ理解できるようになりました。
リズの考え方は、深層心理学のユング理論がベースになっています。それにさらにリズ流理論が組み込まれている、という感じです。
『ガン 希望の書』は、つい最近買ったばかりの本です。眼からウロコのことがたくさん書かれていて、個人的にはものすごくためになりました。助かりました。
ただし、リズの思考は完全に「左脳的」「理性的」ですので、受け止め方次第では、ちょっときつい、とか冷たいとか感じる場合もあるかもしれません。ユング理論は、本来はもう少し優しいというのが私の個人的感じ方です。
ユングは心理学は一人一人に対応するものなので、体系化できるものではない、との捉え方をしているらしいのですが、リズはそれをあえて体系化してくれているので、その点の功績は本当に素晴らしいものです。この手の本は、日本人作家のものでは存在していないものですから。
リズにはキリスト教圏の考え方がベースにあることも理解した上で、私はこの本に出逢えてLuckyだと感じています。
欧米では、医療と心理学の融合、あるいは心理学と霊性の融合があたりまえのように進んでいます。
日本は、その点、少し出遅れているのではないでしょうか。私が知らないだけかもしれませんが。
深層心理学は、潜在意識と呼ばれる、私たちが自分では感じられない意識のあぶり出しをして、自分自身に向き合い、自分を愛していく、という考え方をします。私たちが普段感じている顕在意識が1割、潜在意識は9割、という解釈がなされる場合があります。言葉をかえると、通常の生活の中では私たちは自分自身の1割にしか気づいていない、ということです。
私は心理学の考え方をライフ・スタイルに取り入れることで、まったく異なる自分の世界が拡がってきてくれているのを感じています。
私が行うカウンセリングは、100%が心理学の考え方、というわけではありません。そこに「直感」「直観」が加わります、かなり大きな比重で。
ですので私のカウンセリングもまた、ユング理論をベースにした「私流」であるということに、この本を読んで改めて感じることができました。言うまでもなく、リズの理解の何分の一しか、理解できていませんけど。
ユング自身は東洋思想も深く研究していたので、私たちにとって馴染みやすい考え方をしています。
私が一番好きなユングの理論は、「すべては同胞。すべての大元は一つ」という考え方です。
私の真ん中に「憎しみ」があるということは、すべての人の真ん中に「憎しみ」があると解釈できるかもしれませんね。「憎しみ」は特別な感情ではなく、日常的に私たちの中に湧きおこる感情です。それをため込みすぎた時は、重篤な病気を発症させることにもつながりかねません。
どんな感情も気づいて、感じていくことが大切。すごくシンプルだけど、なかなか実現できないこのことをリズは、深く掘り下げて教えてくれています。文化の違いや思想の違いをアレンジしながら自分流を組み立てていく、創造的な面でも楽しませてくれます。
なるほど、本というのは、100%のお手本でなければいけないということはないんだ、という新たな発見をさせてもらえました。逆に言うと、書き手の力量もあるけれど読み手の腕のみせどころ、ということもあるのかもしれませんね。そのいずれもが良い塩梅で働いてくれた時に、その本が真に「生きる」のかもしれません。本に魂を吹き込むのは、書き手と読み手、両方だ、ということでしょうか。