ここのところ、ある人の「真実」が浮かびあがってくることが増えています。
その真実とは、私にとっての真実で、他の人からしたら、なんでもないことかもしれません。
例えばAさん。
スピリチュアル上級者として、私の前に突然あらわれました。当時、何も知らない私は、「すごいな。こんな考え方があるんだ」と、その人をある意味尊敬のまなざしでみていました。途中から、よくわからない私が見てもその人は完全に「迷走状態」で、どんどんスピリチュアル・エゴを膨らましていることに気づき、私の方から距離をおきました。
ところが。
なるほど。彼女が私に近づいてきた目的は、「保身」。自分自身の信者、信奉者獲得のためだったんだ。
彼女の中の大きな矛盾に気づきました。彼女はキリスト教を否定していました、仏教系の考え方が柱の人。どちらであっても私には関係ないけれど、彼女のヒーリングは「キリスト教理論ベース」のもの。なぜ、そのことをひた隠しにしたのでしょう。彼女の理論は破綻していた、はじめから。
ときのう、気づいてしまったのです。
例えばBさん。
その人は、自己啓発系の売れっ子作家です。ホーム・ページを見て、「へぇ、こんな人がいるんだ。こんなにこころが開いた人がいるんだ」、一目見て気に入り、数冊その人の本を読んでみました。
最初の1~2冊は感動の嵐。そのうち、ゴースト・ライターを使って著書を量産している姿勢に違和感を感じ、さらに時々目に入ってくるその人のセミナー情報などが、「うさんくさく」視えてきて、「あ、違ったな」と卒業します。ゴースト・ライターを使うこと自体は、ケース・バイ・ケース。メリットがあることも少なくないでしょう。ただし、その姿勢をみて、その人のブレーンもみな同じだろうことが視えて、表舞台は自分、著書はゴースト・ライターという生き方に少なくとも興味は膨らみませんでした。
今、たまたまAmazonのその人の本のレビューをみていて、「なんだ、宗教系の流れの人だったんだ」。確か著書にはそんなことは一言も書いていなかったような気がします。何々派、と明記しないまでも、「自分はこういう流れで生きています」というようなことはあっても良かったのではないでしょうか。信仰の自由は誰にでもあるのですから。思想であって、宗教ではない、とその人は思っているのかもしれません。
私は宗教を否定はしません、たとえ思想であっても自分の柱は堂々と明らかにした方がはるかに、ハートに響きます。
例えばCさん。
その人は、人のオーラを視るのが趣味でした。私はオーラなどまったく見えないので、すごいな、と思う反面、何も知らないで自分のオーラを見ず知らずの人にのぞかれる気分はどうだろう、と感じました。その人にもそのことを伝えましたが、「オーラが視えるとか言ったら、みんな離れていくでしょ」と、彼女なりのこだわりを話していました。
その彼女とは、一時はかなり親しくしたもらっていましたが、他にも考え方の異なることがたくさんあって私の方から彼女と距離をおくように。
つい最近、まったく異なる人のサイトに「オーラが視えると言っても、黙って視るのはひとさまの手紙を盗み読みするようなもの。タブーである」というような内容のことがあって、「やっぱり」と納得します。何も知らない私でさえ、そう感じるのに、なぜその人はあえて他の人のオーラをのぞき込んだのでしょう。
と、こんな感じで、例をあげると、それなりの数になります。
メッキがはがれる、という表現は、あまり良い意味ではないかもしれません。
冷静に考えてみると、彼らの共通項が視えてきます。
彼らはみんな一見、ものすごく「良い人」です。ソフトな言葉、ソフトな表情。困った人を見たら、心を寄せないではいられない、そんな良識的なタイプに見える人ばかり。
その実。
自尊心が育まれていないんだな、ということを感じました。自分を大きく見せようと羽根を拡げすぎたクジャクのように。等身大、ありのまま、の自分に自信が持てなかったのではないでしょうか。
それって、もしかしたら私自身の姿でもあったのかもしれませんね。
つまり、メッキがはがれたのは、私自身でもあるのです。
そう言えば、彼らとの出逢いのきっかけ、は割と私の波動が落ちていた時。不安で押しつぶされそうになっていた時です。よく言われるんですが、波動が乱れている時には、同じように波動の乱れている人を引き寄せてしまう、と。
そのことに今気づいた、ということは、私の波動はやっと落ち着いて、一見、ものすごく「良い人」との縁は必要なくなったということなのかもしれません。
彼らといて幸せな気分になったり、著書を読んで、こころに響きを感じたりしたことも本当のこと。
私、弱かったんだな、と改めて自己反省というか、正しくは自己受容。
そう、弱い私も私。
今、少しだけ強くなった私も私。
どちらも大切な私。
メッキはいつかはがれるものなのかもしれません。メッキが剥げて、はじめて本物の自分があられわれるものなのかもしれませんね。
本物の自分に気づくために、あえて「メッキ」を選ぶ、という選択肢もあるということでしょうか。
※ 追記
彼らを大きく視ていたことの裏に、私のコンプレックスがあったことは事実です。
スピリチュアルなこと、誰にでも愛のスタンスで接すること、霊能力、サイキック能力の開花について、などなど。
今、それがすべて「クリア」になりつつあります。
私にとって大切なのはスピリチュアリティ。ブーム化している今のスピリチュアルは、大変お世話になったものの一つですが個人的には卒業の時がきているし、誰にでも愛のスタンスで接することと真に愛の人であることは違うということに気づきました。また、霊能力、サイキック能力などは、その時がくれば必要であれば自然に開花するものだし、同時にそれは特別でもなんでもないことだとわかりました。
私がまだまだ未熟な時の出逢い。それはそれで必要だったことなのだとわかります。
彼らとの出逢いがあったからこそ、視えてきたことがあるのですから。
メッキは本当はダイヤモンドの原石状態なのかもしれませんね。
彼らもまた、本当の自分に出逢うために、メッキを活用したのかもしれません。