言葉のうわすべり。
調べてみると「言葉が上滑りする」という表現が一般的みたいですね。
ここ数か月、本を読んでいて、「言葉のうわすべり」感を感じることが多くなっていました。
内容的には素晴らしいもののはずなのに、読んだ後、なんかシックリこない感が膨らむ。
今の私にはその情報は必要ない、ということなのかしら、と。
やっとその意味がわかりました。
私は必要以上に「優しい」文章が苦手なんだ、と。
「易しい」文章は好きなんです、「優しすぎる」文章は苦手。
「易しい」文章は、相手にわかりやすい表現をしている。
「優しすぎる」文章は、相手に自分の優しさをアピールしている。
言葉の上滑り感を感じるのは後者です。
相手の気持ちに寄り添う。
すごく素敵なことです。
けれどそこに「こういったら相手が喜ぶのでは」「こういったら相手が癒されるのでは」という意識が強く入りすぎると、こちらとしては「何だか、わからないけど、もうお腹いっぱいです」気分になってしまう。
これってどういうこと ?
なるほど、その書き手の人は、相手の人を信頼しきれていないのだな。同時に自分自身に自信がないのだな、と感じました。
よく言うと、サービス精神旺盛な人。
逆の視方をすると、本音を見せない人。
私も「優しすぎる」文章を書いていたことがあって、きっと私の中のもう一人の私が「もう、お腹いっぱいだよ。もっと、素直に正直にあなたの感じるままの言葉を聴きたいわ」と私に語りかけてくれていたんですね。
私が私に対して、「言葉が上滑りしているよ」と伝えてくれたのです。
言葉の上滑り感には、こんな内容のものも含まれていました。
自分を大きく見せようとする文章。等身大の自分を認められないから、どうしても少し話を盛っちゃうとか、他の人の話を引っ張ってきちゃうとか。
最近目にするのは聖書や禅の言葉などの引用です。宗教家ではない人が宗教家の言葉、宗教の教義を多用する。自分がそれに触発された、という意味なのでしょう。ただ「多様」は何だかもったいない気がするのは私だけでしょうか。
せっかく自分の表現の場を設けたのに「あの人はこう言っている」「あそこにはこんなことが書いてある」ばかりが増えてしまうのは、自分の自信のなさのあらわれを感じてしまいます。
なるほど、これも私自身に向けた言葉なのかもしれません。
私たちは存在するだけで誰かに影響を与えています。相手にとって良い影響になる場合も、悪い影響になる場合もあります。
たとえ「悪い影響」を与えたとしても、それが相手の人の成長だったり進歩だったりにつながるわけですから、自分の存在そのものを自分自身で受け容れることが大切なんですね。
自分を受容する。すると人のことも受け容れられるようになる。
受け容れる、というのは、その人のありのままを「そうなのね」とハートに落とし込むことです。必要以上に「あなたは素敵だわ」とポジティブ思考にもっていくことではありません。
必要以上に「あたなは素敵よ」と思うということは、「ありのままのあなたには魅力がないわ」と感じているのと同じ、そう、「ありのままの私には魅力がないわ」と感じていることと同じなのかもしれません。
ありのまま、あるがままを「それが私」「それがあなた」と感じられるようになると、もっともっと私たちのコミュニケーションはスムーズにいくかもしれません。
私自身は今、その、移行期です。
100%なんてとても無理だけど、少しずつ自分を「受け容れ」て、それが他の人に対しても映し出されるように。
サービスって最近感じるんですけど、まず自分に、ではないかと。
誰かに対してのサービスって、自分へのサービスができてから、ではないでしょうか。
あなたはご自身へのサービス、ちゃんとしてあげていられますか。
自分へのサービス。自分を愛する、とか自分を大切に育むとか、慈しむとか。何よりありのままの自分を感じてあげることかもしれません。
それさえできなくなってしまっているのが、今の私たちですから。
自分を愛することからはじめませんか、まず。
※ 追記
ここ数日、またも感情の大きなうねりに巻き込まれていました。
今朝目が覚めたら、何かが大きく変わっていました。
そうそう、マンション内の河津桜、裏の方に咲いている桜はほぼ満開です。
河津桜の花言葉に『精神美』というのがあるとお話しましたね。
ふむふむ。
このような花言葉も少しなら良いけれど、多様するのは自信のなさ ?
桜ちゃんが大切なことを教えてくれました。