私はがんばり病。
いつもがんばる癖がついている。う~ん、そうだったか、がんばり病だ、と今朝、気づきました。
たいていの人はがんばり病ではないでしょうか。
がんばれ、がんばれ、と言われて育ってきた。がんばった時にはいつにも増してほめられた。またはがんばった時だけほめられた。その成功体験がしみ込んで、がんばればほめてもらえる、がんばらないと認めてもらえない、と学習してしまった。
おそらく、がんばった時には、自己高揚感がたかまっている、ということもあるのかもしれませんね。
気分が良くなっているのです、一瞬、気分がたかまって。
自己高揚感が高まる、ということは、その時、自分が少しだけ大きくなったような気になります。だから気分がいいのです。
私は幼い頃から相当やがんばり屋で、もちろん怠け癖も強いのですが、なんとなく、いつもいつもがんばってしまっていた。それが当たり前になっていた。
実はそれは「力んでいる」証拠。うまくやろうと気負っている状態。全身の筋肉を緊張させている状態。
なぜこんなことを思ったのか、というと、私はヨガやストレッチを14年もやっているのに、いっこうに身体が柔らかくなりません。
ストレッチの時などに痛い、と緊張が走ると筋肉はかたまってしまう、という先生の話をふと思い出しました。
元々身体がかたい方なので、私は他の人より、早い段階で緊張状態に達してしまっていたのではないかと。他の人はサラっとできるポーズが私にとっては結構大変で、痛いと感じる前にやめてしまえばいいのに、周りの人に引っ張られてついついがんばってしまっていた。「力んだ」状態のまま、ヨーガやストレッチを続けて来た。
筋肉の弛緩にたどり着けないまま。
それは私の元々の「がんばり癖」が原因だった。
がんばって、がんばって、がんばった末に「柔軟性」というプレゼントがもらえる、とどこかで思考がゆがんでしまっていたのではないでしょうか。
心理学の言葉を借りるのなら、「認知の歪み」が起きていた。
そう考えるとつじつまが合うんですよね。
私はリラックスのためにヨーガやストレッチを始めたのに、先生の柔軟志向という考え方と相まって、私自身も柔軟志向にはまり、その柔軟性のために「がんばる」という選択をしたような気がするのです。
力を抜けなかった。力んでいた。
ここ数日の間に、「整体」の理論にたどり着き、眼からウロコ、です。一般的に「整体」というと、あの、全身をバキバキっと鳴らして矯正するタイプを思い浮かべますが、まったく違った。
「整体」とは「生命への賛歌」だったのです。別の機会に詳しくお話しますが、簡単に言ってしまうと、歪みの矯正ではなく、身体を緩めて自然治癒力を引き出し、心身を整える、「整体」=「整命」ではないかと個人的にそう感じました。
整体の理論でいうと、私の力みは骨盤や背骨をゆがませ、結果硬直させてしまったことになります。
だったら自分で緩ませてみよう、と力を抜ききって身体を左右に振っていたら、ものすごく気持ちがよくなってしまいました。一時流行った「金魚運動」みたいなものを、寝ながらでも立ちながらでもやってみると、とにかくリラックス。
ひと様には視られたくない、見せられないカッコですけど。
これだ、私の求めていたものは。
逆に言うと、私のヨーガもストレッチもただただ緊張感を強めていたんだろう、と自己発見にいたりました。
そっか、私はがんばり病なんだ、このかたい背骨も股関節も、私ががんばりつづけてきたある意味勲章なんだ、と違った方面からの自己受容が始まりました。
私はものすごく柔軟なところがある反面、ものすごく頑固なところもあります。それに伴って完ぺき主義だったりもして。そう、かなりの「がんばり屋」です、自分で言っちゃうと。ただし、かなりの「怠け者」、かなりの「アバウト」もあわせもっています。
その事実をまず受け容れる。私は基本「がんばり病」なんだ、と。それが私の個性なんだ、と。
ものの本などに「がんばらない生き方」みたいなことが書かれているけれど、がんばっちゃう性格なんだから仕方ない。
がんばっちゃう自分を受け容れてあげることがスタート。
その上で、自分に合った「緩め方」を一つ一つ実践していく。
私の場合、スポーツ・クラブでのレッスンは「がんばり病」を強化させることにつながることがわかりました。スポーツ・クラブというのは、基本的にインストラクターの先生も「がんばれ、がんばれ」タイプです。参加者も同じ。その中でよっぽど強い意志がないとマイ・ペースは貫けません。
スポーツ・クラブ熱がさめました。よい意味で。
元々ヨーガを習いたくてスポーツ・クラブに行き始めました。その流れでストレッチや太極拳、ピラティスなどのエクササイズも受けるようになりましたが、ヨーガに執着していたのだな、と先日気づき、ヨーガとの適正距離がつかめはじめています。今はヨーガを卒業してもいいかな、と感じているし、同時に私には太極拳やピラティスの方が合う、ということもわかっています。
ということは、何もスポーツ・クラブに行って、グループ・レッスンを受けなくても、自分のできる範囲で、自分のやりやすいペースで、自分に合ったエクササイズを楽しめばいいや、と、そんな結論に落ち着きました。
今の私はトコトンかためてしまった骨盤と背骨を緩ませたいので、自宅で気が向いた時に「ユルユル」エクササイズ、自分で名付けました、力を抜ききる運動をした方が断然気持ち良さにつながるはずです。スポーツ・クラブのレッスンは必要最低限のものに絞ることに決定。もちろん「行きたい」気持ちが膨らんだらその時には行けばいい。
がんばり病。
気づいてしまえば、それ以外の何ものでもないのに、気づけなかった。そのことにもビックリ。
でもがんばってきたから得たものがあるのも事実。
がんばることがいけないのではありません。うまい塩梅にがんばればいいんですから。
これからの私は、力を抜く、抜ききることにがんばろうかな、と。
「がんばらないようにしないといけない」と思うと、これまた力が入ってしまうので、「がんばり屋さん、ほどほどにね」と自分の「がんばり病」を尊重しながら、その、状態、状況を遠くから見守る感じでしょうか。
主人に、「私たちはお互い頑固ながんばり病だから、これからはがんばりすぎないように力を上手に抜くことがお互いの課題だよね」と言ったら、珍しく即座に同意してくれました。私の気負いが減ったから、主人の気負いも減ったのかもしれません。
世の、がんばり病のみなさん、気負いではなく、気を抜く、感じ。
もう十分がんばってきたんだから、少しくらい怠けても平気だし、少しじゃなくて平気だし、いっぱいいっぱい「怠ける自分」を許してあげても平気ですよ。コチコチにかためてきたこころと身体、自分自身の意思で解してあげましょう、焦らず、気負わず、ためらわず。
まずは深呼吸、かな。大きく大きく息をします。がんばり病の人は呼吸が浅くなっているのが特徴です。深呼吸なら誰でもできるはず、すぐできるはず。「がんばってきたね、ありがとう。もう大丈夫だからね」と自分自身に語りかけながら、ですよね。
私は内臓的には「病気」と呼ばれる状態のものはないのですが、全身、まちがいなく「がんばり病」だ、と気づけて本当に良かった。このままがんばりつづけていたら、いつか血管も収縮してしまうかもしれないから。
私たちの身体には、私たちが生きていくのに必要な力はすべて備わっています。
力を入れすぎると、それらがうまく働かなくなってしまいます。車のオーバー・ヒートみたいな感じでしょうか。自分の身体に信頼を寄せて、時に身体に身を預けて、そこそこのゆるゆる感を味わいながら、ボチボチ。
瞑想を生活に取り入れて、正確には瞑想状態で生活したりしながらカチコチのこころを解してきたつもりだけれど、まだまだのびしろはたくさんありました。
これから、がさらに楽しみです。
※ 追記
動物君にならえ。
わが家のあちら在住愛猫・海・かい、そして愛犬・華実、愛猫・海・うみ。
みぃんな「ゆるゆる」。どうしようもないくらい力が抜けたコたちが私たちの元にやってきてくれました。
そういう意味だったんです、彼らが先生。えらぶらない先生。生徒と対等の先生たち。
素晴らしき仲間たち。