あちらの世界からこちらの世界へ。
私の内なる先生が変わりました。
少しわかりにくい話ですが、私個人の理解では、私たちの中には内なる師がいます。誰の中にも。
その師は、私たちの人生の流れにあわせて、時々交代をするようです。
内なる先生が変わった、と確信を得たのはきょう。
今までの先生が誰であったかはわかりません。大体こういう感じ ? というものは感じていました。傾向は明確です。
おそらく、ここ十数年の先生だったのでしょう。「こちらの世界よりあちらの世界」重視の考え方をもっていたようです。ようです、としているのは潜在意識でのことだったので、私にはよくわからなかったこと、さらにきょう、はじめて「なるほど、そういうことね」と気づいたためです。
今年に入って、覚者と呼ばれる人の本、禅僧、高僧とされる人の本を何冊か立て続けに読みました。私の中で意識のせめぎ合いがあったようです。
これからもあちら優位の生き方をするのか、それともこちらの世界での生き方を優先するのか。
正直、どの本も何かが引っ掛かりました。素晴らしい内容なのですが、ハートの真ん中が微妙に「う~ん」と感じているのを何回もキャッチしました。
さらに、ある人とのメールのやりとり。もう、それはしっくりこない、ただそれだけ。優劣意識とか、善悪とか、そういうものではなく、ただ私の真ん中と違うのでは、という本能的な何かを感じました。
きのうのこと、そのせめぎ合いの最終戦が行われていたようで、「あちらの世界」重視の本と、「こちらの世界」重視の本、二冊が突然、私の前に差しだされてきました。
一瞬前者に傾きかけたハートを止めるかのように後者の本がグッと強くその存在をアピールしてきたのです。
その瞬間、「私はまた元の習慣に戻ろうとしている」、そう感じました。こころのホメオスタシスです。恒常性の維持という言葉に置き換えられる生体作用のこと。
すでに私の中では新たな習慣が芽吹きはじめているのに。
私たちは、変化、変容を望む一方で、元にとどまろう、その方が安全だから、と感じるこころのホメオスタシスが働きます。自己保存欲求ともいいます。自分をその場に保存しようとする。その両者とのせめぎ合いで元に戻ったり、変容したり、の繰り返しが行われます。
私の中のせめぎ合いもまさしくそれ。
新しい習慣に対する期待と不安。今までの習慣に対する安心感と停滞感。
がやはり、私の中では「変化」の芽が強く出始めていたようで、せめぎ合いの決着がつきました。
新たな習慣、「こちらの世界」重視の生き方が始まりました。
ここ数日、当エッセイでお花の芽吹きのお話が続いていたのはそのためでしょう。
そして今朝、愛猫・海・うみが今までまったく入ったことのない箱の中に入り、そこから頭を出して周囲を見渡していたことが、私への決定的サインになりました。
具体的に言うのなら、エゴの手放しの世界からエゴとの協調生活の世界への移行です。エゴの解釈はとてもむずかしいので、現時点での私個人の理解の範囲で。
私たちは肉体をもっている以上、エゴ、自我、というようですが、これをまったくゼロにすることは不可能です。少なくとも私の生き方では。
エゴを抑圧し、排除し、という考え方は、自己否定につながるのではないかと、私はそう感じました。私自身に必要なのは、自己肯定。もちろん、自己否定も自己肯定も等価です。優劣、善悪の差はありません。
これは私の世界において、のお話。私たちは他の人の世界には、足を踏み入れることはできません。人の課題はそれぞれですから、何かと比較してこれが良い、というのでもなく、今の私の世界はこちらのようだ、という意味です。
まぁ、くどくどと書いていますが、簡単に言ってしまうと、私は肉体を持った人間として、こちらの世界で、時に欲を膨らませながら、時にエゴを膨らませながら、けれど欲やエゴ、もしかしたら同じものかもしれないけれど、それらが暴走しまくることのないように、自分なりの生き方を楽しんでいく、そういうところにシフトした、ということです。
ここ一年くらい、「まず自分」とか「自分を愛して」とか「自分を慈しんで」という言葉を何回もお伝えしてきましたね。
私のシフトは一年くらい前に始まっていたのですが、完全に踏み切る勇気が持てなくて、一歩進んでは二歩下がり、時々三歩進んだり、みたいな、そんなペースでここまで来たのではないでしょうか。
人は弱いものです、なかなか強くは生きられない。
そんな自分をとことん愛おしみながら、今までとは少アプローチで、自己表現ができたらいいな、と新たな世界の始まりをよろこんでいます。
今までの内なる先生、ありがとう。あなたのお蔭で、きょうの日を迎えることができました。
10数年も寄り添ってくれていた存在です。やはり感慨深いものですね。
同時に、そんな存在に、一歩もひるまず、私をぐっと引っ張ってくれた新しい先生との出逢いに、あらためて「ありがとう」。
※ 追記
「何かのスキルを訓練することは自己高揚を助長する」
これは心理学者であり、哲学者のウィリアム・ジェームズの主張だそうです。
きょう、はじめてこの言葉に遭遇し、同時にウィリアム・ジェームズをはじめて知りました。
自己高揚の意味を調べて、答えが明確になりました。
私たちが一般的に認識している「エゴ」は、私たちの生涯の友だということ。
彼らとどう付き合うかは、どう生きるかに直結しているのだろうと、私はそう感じました。
ここまでは2019/02/03に執筆していました。どうしてもアップできず、今、翌2月4日にこれ以降を加筆しています。
自律自主性。どうやら私がたどり着いた世界は、他律ではなく、自律、さらに自主性、自分自身がメインになる、という生き方を表現する場になるらしい、とわかりました。
自我は私たちにとってなくてはならないもの。ところが油断すると「自己中」にもなりかねない、諸刃のやいば的性格をもつものです。そのバランシングが今後の大きな課題。
私たちは「自己愛」はよくない、とする考え方が身についています。
今までの私はそちらにいました。
これからは「自己愛」と共に自分らしさを思う存分発揮できるところに身を置きます。
さらに浮かんできたのは、「あちらとこちら」の融合。
あちらとこちらは本来分かれているものではなく、あちらからみれば「あちらの世界がこちら」になって、どちらもがあっての表裏一体の世界なのではないでしょうか。たまたま視る位置が異なることがあって、それで便宜的に「あちら」と「こちら」というように区別しているのではないかと。
こちらで肉体を持ちながらあちらの何かを感じるかもしれませんし、あちらの何かをこちらの世界で表現させてもらうこともあるかもしれません。
その辺の境界線のあいまいさ、の中でいかに「自己愛」を育んでいくか、その創造性を楽しませてもらえるということみたい。
私にとっての新天地はどこまでもクリエイティブ意欲を刺激してくれそう。
今はまだ明確に「こういう世界とこういう世界の融合だよ」と説明しきれませんが、感覚的には「なんとなくこんなもの」というものがつかめています。
私がたどり着いた世界は、何かを一方的に「崇拝する」世界ではありません。
お互いに尊重し合う。すべてにおいて。
もしかしたら、当エッセイをご覧のあなたにも、同じように内なる先生の交代が行われた可能性は少なくありません。あるいはこの一年の私のようにせめぎ合いが行われているケースもあるのではないでしょうか。
慌てず、焦らず、抗わず。何がどうなってもうまくいく時はうまくいく。何をどうしてもうまくいかない時はうまくいかない。ただそれだけのことです。そして「うまくいかない」と感じていることさえ、実は「ベスト」なのだと納得できるようになるはず。たとえ少し時間がかかったとしてもなるようになる。安心してくださいね。
きょうは立春。
もしかして「命のエッジが立つ」という意味ではないでしょうか。