引き算。
最近、数冊の本を読んでこう感じました。
なるほど、情報は引き算をして活用しても大丈夫だな、と。
例えば、健康に関する本があるとします。たいていの専門家は「治療家」の目線で情報を発信しています。つまりその情報は、健康な人より少し病気に傾いた人が基準です。
こころに関する本もそうです。こころのデリケートな人、今現在悩みを抱えている人、が前提。本を買う、ということは問題を改善したいからですものね。
すると、お悩み加減が少ない人にとっては、胃もたれ状態。情報がヘビー過ぎる、ということも出てきます。
情報を目にしたら、まずその情報は、ニュートラルな視点なのか、それとも少し傾いているものなのか、それを判断した方がよさそうです。
医師が発信しているものは当然、病気ありきで書かれています。良い悪いではなく、それがあたりまえ。だとしたら、病気ではない人、症状が軽い人は、「ここまで考えなくても平気ね」と自分自身でものさしを創ってしまえばいいのではないでしょうか。
ショップさんのメールなどもそうですね。彼らの視点は、「max」。これをしないと大変だよ、と少し心配しすぎのところもあります。ショップさんもまた「治療者」の目線が少なくありません。重篤な症状の人を対象にして、「これをすればベストだから」と。もちろんそれで安心できる場合はいいのですが、それに慣れてしまうと、「大変、大変、もっとこれをしなくちゃ」「今のままでは絶対不十分だわ」という気持ちが膨らむケースも出てきます。
すべてが引き算でいい、ということはないでしょう。情報のジャンルにもよりますね。
けれど引き算でちょうど良いが見つかるケースはあるかもしれません。
よく「情報はウノミにしないで、精査しましょう」という言い方がなされるんですが、一つの方向として、「引き算してみる」というのもありではないでしょうか。
引き算をするということは、その情報から「合う」「合わない」を自分自身で選択することにつながります。「合わない」からいけないのではなく、今の自分を知るきっかけにもつながります。
「そっか、私にはこれは必要なくて、こちらが合うから、今の私は、こういう状態なのね」と。
情報も「人」だと思って、合わないと切り捨てるのではなく、合わないなりの意味を探ってみるのです。
立派な自己肯定につながりますね。
自分で書いていて、なるほど、と思ってしまいました。
情報を自己肯定ツールとして活用する。
その手法として、引き算もあり、という考え方を取り入れる。
使えない情報なのではなく、たまたま今のあなたには必要ない、というだけ。
そうやってすべてのことを自分の糧にしてしまう。
気づいてしまいました、書くことで。
書くことは自分の中に先生がいるのと同じかもしれません。
「書く」
あなたもご自分のお気持ちをどこかに書いてみるとおもしろいかも。
上手に書くのではなく、正直に書く。
私たちはどうしても「上手に書く」ことに意識が向きがち。すると「書けない」という気持ちが強く出てきます。「書く」ことは自己表現なだけ。そこに上手も下手もなくて、自分の言葉で自分の気持ちを表現すればよいのです。
先生、ありがとう、と自分のハートに言っちゃったりしながら。
※ 追記
最近、どうも、本を読むと胃もたれ気味だったことの理由がわかりました。
私にはヘビーなんだ。
以前の私だったら快適に読めたかもしれない。
ということは。
私の中に大きな変化が生まれている、ということ。
その事実を受け容れなさい、とあちらからのメッセージですね。
はい、よくわかりました。自分の変化を恐れていた、ということに。
情報の胃もたれの陰に、恐れ、不安の感情あり。
しっかり感じつくします。