私たち女性には「聖母」という役割が備わっています。
同時に、もしもそういう表現があるのなら「俗母」の側面も備わっています。
その二つの側面の天秤によって、あっちに傾いたり、こっちに傾いたり。
その真ん中あたりが本当はちょうどいい。
そうなんです、「聖母」だけの人はいない。「俗母」だけの人もいない。
この基本原則を覚えておくと、ずいぶんと生き方が楽になるような気がいるんですが、いかがでしょう ?
たまたま女性での捉え方をしましたが、男性であっても同じ。トランスジェンダーでも同じ。肉体での便宜的性別にかかわらず、というお話です。
聖なる自分。
俗なる自分。
誰もがこの二つを必須アイテムとして携えているとしたら。
あの、聖母そのもののあの方は、実はとっても俗な自分を隠していたのかもしれません。感じていたけど、表面に見せなかっただけかもしれません。
聖なる存在として歴史に残っているあの方たちも、本当は俗物の自分を感じていたのかもしれません。
あくまでも仮説ですけど、みんなそうだとしたら。
私はこころが楽になりました。
聖だけでなくていいんだ、俗があるから聖も際立つんだ。
すべてにおいて。
そう考えると、歴史に残る偉人たちにも、実は私たちと同じように俗物の側面もあり、邪悪な側面もあり、けれど「聖」の部分の仮面だけを大きく取り繕って生きていたのかもしれません。
彼らの苦しさがなんとなくわかるような気がします。
「聖」だけが「善」との刷り込み。
「俗」もまた「善」であり、時に「聖」も「悪」になるのかもしれないのに。「善」も「悪」もあってのこの世の中なのに。両者の価値は同じなのに。
私は俗物、時に邪悪な自分が出てきて、最近はそれらと仲良くする術がわかり始めました。
彼らは存在してはいけないものではなく、常に私たちの影として存在してくれたものたちです。彼らがあるから、光の私たちが煌めくのです。
俗物ちゃん、邪悪ちゃん、こんにちは、ありがとう。
そんな当たり前のことになかなか気づけなくて今まで来てしまいました。
私には優しいところもあります。嫌味なところもあります。それが私。
嫌味ちゃんが暴走するのは困るけど、まったくいなくなっちゃったら、私の優しさは光を放てないかも。
聖も俗も大切な自分の一部。
だから私は抱きしめます、彼らのこと。ただただ何も言わずに。
私は聖なる存在でなければいけない。
もしもその想いでつぶれそうになった時は、俗な自分、邪悪な自分の存在を想いだしてみてはいかがでしょうか。
案外彼らは温かい存在だということに気づくはずです。血の通ったもう一人の私たちですから。
※ 追記
あのね、ともう一人の私がおしゃべりしまくり。
本当のあなたはこうなんだよ、本当は人ってこうなんだよ、って。
誰かが教えてくれる大切な教えより、自分の中の声の方が信頼できるような気がします。
彼らにはエゴがないから、なんでしょうね。
私にはエゴがある。でもエゴがあるから、彼らの無我もわかるのかもしれません。
みんな一対、表裏一体、おたがいさま。
彼らは私のエゴがなければ、存在し得なかったコたちなのかもしれませんから。