2年間の集中自己統合のお蔭で、「やっと」肩の力が抜けたみたいです。
自己統合とは、自分が置き去りにしてしまった感情を、外の世界から感じてそれを自分の中におさめる、というような感覚。
例えば「アイツ、やなヤツ」と感じたとしたら、それは私が私自身に対して「やなヤツ」と感じていることなので、その感覚を自分自身の意識として感じきる、というような考え方をします。
私たちは本質的に不快な感情は感じたくない、と思う生き物なので、自分の中に出てきた一見ネガティブ感情をたいていの場合、視ないようにして抑圧します。
感情や意識はそれ自体がエネルギーをもっています、抑圧したものは必ず自分の中にたまっていきます。
抑圧してエネルギーMaxになった時、それは突然表に顔を出してきます。「攻撃性」となって他者を攻撃したり、自分自身の身体を攻撃したり、という動きに出ることも少なくありません。
犯罪が起きた時に、「えっ ? あんな良い人が。まったく信じられません」と周りの人が驚く、その大元がこの抑圧のパワーです。
この抑圧パワーは、誰にでも備わっているもの。
「私は元々怒らない方なので」
と思っている人ほど、内に抑圧パワーを秘めていることが少なくありません。
なんでも日本人はこの抑圧がとても得意なんだとか。日本人はうつ病発症率、高いですね。またアレルギー比率も高い。さらにガンも。いずれも、この「抑圧」が主要因なのでは、とする説があります。
それを受け容れるかどうか。
そこにも抑圧パワーが関与してきます。
このように私たちはつねに何かを抑圧し続けてきた可能性が少なくありません。私自身も、どっぷりと。
ですので、それを一つ一つ感じて自分と統合させ、結果「解放」「昇華」という作業を続けてきました。
すべてが自己統合できたわけではなく、ある程度のところまではきたのでしょう。
そのお蔭で肩の荷がおりて、肩の力が抜けたようです。
肩の力が抜けたお陰で、
◎ 今までみたいな、人に好かれよう、人から認めてほしい、という想いが減りました
もちろん、誰かから嫌われるよりは好かれたい、認められないよりは認めてほしい、という欲がなくなったわけではありません。
ただその欲に対して、自然な感情なので出てきてもいいや、という受け容れ態勢が整ったのです。
必要以上に「人から好かれたい」と思わないのと同時に、「人から好かれたい」と思う自分を抑圧しない、という逆説的な感じです。
私たちの周りにはさまざまな情報ネットワークが張り巡らせていて、今まではそれらに振り回されていた感じ。逆に言うと、それらの情報を楽しみまくっていた状態。
こころの整理が進んだお蔭で、周りの情報に埋没する必要はないな、と感じたということなのかもしれません。必要なものはその都度変わってくるでしょうし、また必要な時に向こうから勝手にあらわれてくれるような気がしています。
情報との適切な友達関係の基準が私の中に育まれたようです。
情報とほどほど、良い塩梅でのお付き合い。
人とほどほど、良い塩梅のお付き合い。
そうやって、何かとのほどほど、良い塩梅の目安と、その関係の築き方の方法論が自分の中に視えてきた。「やっと」。
背中に背負っていた大きすぎる荷物。それはそれで今まで私の大切な一部でした。
そのコたちが「お役ごめん !」と言って、離れていってくれたので、同時に新たなコたちが「はじめまして。よろしく !」とやってきてくれた。
ちょうどそんなタイミングだったみたい。今、が。
前々エッセイ『こころの春』の追記で「ピンクは情熱を使いつくした時にあらわれる慈しみの色」というお話をしています。
もしかしたら私のお荷物は情熱だったのかもしれません。それが慈愛に変わってくれた ?
そんな風に自分のことを客観的に感じることができるようになったのも肩の力が抜けたお蔭。
ふぅ。
※ 追記
わが家には肩の力の抜けきったお二人がいて。
愛犬・華実と愛猫・海・うみ。
彼らと少しだけ波長が近づいたのか、その後何が起きるのか、そんな感覚もまた楽しみです。
やっぱり春みたい。
わが家では毎年、海・うみが真っ先に春をキャッチすることが多いんです。
それを私も同時にキャッチさせてもらえた ?
それとも海・うみはいつでも春 ?
こんなちょっとしたことでもこころが弾みます。
今までにない感覚。
当エッセイをここまで書いていたら、眠くて眠くて仕方ない状況に。
誰かに催眠術をかけられたのか、勝手に瞑想状態に入ったのか。
新しいエネルギーとの出逢いを感じます。